読書ノートの最近のブログ記事

ねにもつタイプ (ちくま文庫)

翻訳家岸本佐知子さんの奇想天外なエッセイ集。

腹をかかえたりあっけにとられたりするうちに、妙な親近感や懐かしさのようなものが芽生えてきた。なんだろうと思ったら、子供の頃に感じていた感覚なのだった。子供の頃は目にするものすべてが不思議でとんちんかんなことばかり考えていたけど、そこには子供なりの筋の通った論理があり、いつの間にかそれが大人の論理に移行しただけなのだ。ぼくなんかはもうすっかりその頃考えていたことを忘れていたけど、岸本さんはエピソードのひとつひとつを事細かに覚えていて、かつその頃の視点を今に蘇らせてまわりの世界を眺めることができる。とても希有な能力で、うらやましい。

身の回りのあちこちに口をあけていた「地獄」、コアラの鼻の材質、トイレットペーパーとの会話、カルピスを飲むと舌の奥にできる「モロモロ」。みんな一度は経験したり考えたことがある気がする。

そしてべぼや橋。本編ではネットでは自分のサイトしかヒットしないと書いてあったが(あとがきでは3件ヒットに増加)、今 Google で検索したら661件になっていた。

Blind Willow, Sleeping Woman

われながら、村上春樹を英語で読もうなんて、かなり倒錯していると思う。もともと英語の勉強6割、読書の楽しみ4割くらいのつもりで読み始めたのだ。

まず、英語の勉強についていえば、かなり効果はあったんじゃないか。英語圏の小説だと、言葉以前に習慣の違いで理解できないことがあったりするが、この本に関してはそれがないことが保証されている。しかも、どうしてもわからない表現にぶちあたったときでも、本屋に行けばいつでも正解を盗み読むことができるのだ。

読書の楽しみについていうと、日本語で読むよりより深く村上春樹の世界を堪能できた気がする。ひとつには、読むスピードがゆっくりになるので、ひとつひとつの表現をより深く味わうことができたといえるし、さらには、会話でも、地の文でも、日本語で読んでいると、浮いてしまっている表現が、英語だと見事にしっくりはまっているのだ。実は英語で書かれたこの本が原典で、村上春樹はとても優秀な日本語への翻訳者のような気がしてくる。

その楽しさがあったからこそ、最後まで読み通すことができたのかもしれない。ゲームブックなどをのぞけば英語のペーパーバッグを読み通したのは、はじめての快挙だった。

村上春樹自身の選で英語版独自に編まれた24編からなる短編集だ(同じ内容の日本語版が先日発売された)。せっかくなので一編ずつコメントしておこう。

"Bilind Willow, Sleeping Woman"。耳が悪い従弟のつきそいでバスで丘の上の病院に行く。よみがえる記憶。その内容が断片的に、暗示的に語られる......。たぶん、『ノルウェーの森』と同じシチュエーションで書かれたアナザーストーリーなのでは。

"Birthday Girl"。レストランでバイトをする女の子が、20歳の誕生日の夜に、とびきりにマジカルなプレゼントをもらう......。カポーティが書きそうな話だ。

"New York Mining Disaster"。短いのに複雑な構成の物語だ。台風がくると動物園に行く友人、たて続く同年代の知り合いの死と葬儀、パーディーで紹介された謎の美女、そして、最後に唐突に挿入される「ニューヨーク炭坑の悲劇」のシーン。タイトルはビージーズの曲かららしい。

"Aeroplane: Or, How He Talked to Himself as If Reciting Poetry"。抑圧された言葉。何年もの時を経てほかの人の口からそれは飛び立つ、ヒコーキの形で。

"The Mirror"。モダンホラー。こういうのも村上春樹はふつうにうまい。

"A Folklore for My Generation: A Prehistory of Late-Stage Capitalism"。古い保守的な価値観から新しい開放的な価値観への移行期特有の苦い悲劇。

"Hunting Knife"。車椅子の男と月明かりの下きらめくナイフ。これぞ短編小説という文句なしのマスターピース。

"A Perfect Day of Kangaroos""Dabchick"。短編というより掌編といったほうがいいようなユーモラスな作品が2つ続く。

"Man-Eating Cats。閉ざされた異国の地で忽然と消え失せる恋人。長編『スプートニクの恋人』の前身。

"A 'Poor Aunt' Story"。'Poor Aunt' という言葉の感触をてがかりにどこまで飛躍できるかというオリンピック競技みたいな作品。

"Nausea 1979"。原因不明の吐き気を引き起こす謎の電話。世界の通奏低音としての無邪気な悪意。

"The Seventh Man"。何度読んでも泣ける話。「それは波だったのです」。

"The Year of Spaghetti"。スパゲティーをゆでることが文学の題材になりうることを示したのは、村上春樹の功績の一つだ

"Tony Takitani"。何段階かのステップをへて最後の最後に「ほんとうに」孤独になるトニー滝谷。ぼくは、逆に孤独で「すらない」状態の不幸について考えてみたくなる。

"The Rise and Fall of Sharpie Cakes。露骨に日本の文壇と、そこでの村上春樹作品の受容のされ方を皮肉った作品。

"The Ice Man"。村上春樹作品ではたいていの場合、生まれ育った共同体から外に出て新たな結びつきを得ることは善で幸福を得るのだけど、珍しくそうでない。

"Crabs"。う〜ん、これを読むとしばらくカニは食えない。

"Firefly"。『ノルウェイの森』の前身となった作品。

"Chance Traveler"。心温まる偶然を描いた作品。その偶然のだしに使われてしまったような女性を、物語的に救ったり、逆に見捨てたりもしないで、暖かな日射しのように寄せる関心で終わらせるのがいい。

"Hanalei Bay"。警官がいう。自然にはあちら側もこちら側もない。原因も怒りも憎しみもない。

"Where I'm Likely to Find It"。ドアのような、カサのような、ドーナツのような何か。

"The Kidney-Shaped Stone That Moves Every Day"。パーティで出会ったキリエという謎の女性との恋愛と、腎臓の形の石をめぐる不思議な物語が、シンクロしながら進んでいく。

"A Shinagawa Monkey"。猿に人生の真実を言い当てられるというのはどんな気持ちなんだろう。

あ・じゃ・ぱん!(上) (角川文庫) あ・じゃ・ぱ!(下) (角川文庫)

アテンション・プリーズ。太平洋戦争敗北後、日本は長大な壁で東西に分断され、西は難波商人マインド全開の資本主義国家、東は一党独裁の共産主義国家になっていた。なぜか明示はされないけどたぶん1994年、昭和天皇の崩御に伴って、壁は音をたてるように崩れてゆく。その模様を伝えるために日本にやってきた、日本人より日本人らしいアフリカ系アメリカ人のCNNキャスター「わたし」がこのねじ曲げられひきのばされたもうひとつの昭和にまつわる陰謀に、ハードボイルドの探偵みたいに、まきこまれてゆく。

役割をいれかえながら実名で登場する人物。東日本の政権党の書記長中曽根康弘、反政府ゲリラのボス田中角栄、あちこちで暗躍する謎の男平岡公威(三島由紀夫の実名)、日本出身として初の大リーガーにして復活した東京ジャイアンツの初代監督長嶋茂雄などなど。さらに、さまざまな文学作品からの人名、設定、文章の自由自在な借用。気がついたところでは、メルヴィル『白鯨』、小栗虫太郎『黒死館殺人事件』、江戸川乱歩、とくにチャンドラーの『さらば愛しき女』からは物語の骨格そのものを流用している。

スラプスティックな笑い、ハードボイルドの叙情、冒険小説のサスペンス、ミステリーの謎、もうひとつの歴史の投げかける風刺。さまざまな異質な要素が調和した、とても贅沢な小説だった。

いや、まったく本当に。

西洋音楽史―「クラシック」の黄昏 (中公新書)

西洋芸術音楽の歴史のはじまりから終わりまでを明晰でめりはりのきいた表現で解説した本。

はじまりは中世のグレゴリオ聖歌から。単旋律で純宗教的な音楽が、徐々に複雑化、世俗化していき、ルネサンス時代の音楽になり、それがやがてバロック以降のいわゆる「クラシック音楽」につながってゆく。

絶対王制下のドラマチックなバロック音楽、市民階級のための啓蒙的な音楽であるウィーン古典派、そして音楽の大衆化が進み作曲家たちがこれまでにない自由を得て、百家争鳴のロマン派で絶頂期を迎える。19世紀末から第一次大戦までの最後の輝きの時代を経て、難解で前衛的な作品の登場はさらなる歴史の跳躍と当事者たちは思っていたようだが、実際にはそこで歴史は終わってしまった。

西洋芸術音楽は、新作の供給という面からは公式文化の座をすべりおち、サブカルチャーのひとつになってしまったのだ。代わりに、古いレパートリーの再演が西洋芸術音楽の主たる部分として残り[指揮者のアーノンクールの言葉に「18世紀までの人々は現代音楽しか聴かなかった。19世紀になると、現代音楽と並んで、過去の音楽が聴かれるようになりはじめた。そして20世紀の人々は、過去の音楽くしか聴かなくなった」というのがあるらしい。]、他方ポピュラーミュージックが花開いた。

中世、ルネサンスの音楽についてはまったく知らなかったので、とても興味深かった。本文中でいくつか紹介されていたので、ぜひ聴いてみたい。

あと、バロック〜現代の音楽をふだん iPod などでランダムにきいていると、フラットで、趣味の違いとしてしか感じられなくなってしまうが、社会状況などにも影響された歴史的な変化の結果そういうスタイルの音楽になっていることが再確認できたのもよかった。

最後に、いくつか興味深い話題を拾い出しておく。

  • バッハはバロック音楽としては例外的な存在。バッハが得意とした対位法や宗教音楽は一時代前のものだった。カトリックの文化とプロテスタントの文化の違い。
  • ロマン派音楽とは、「どんどん無味乾燥になっていく時代だったからこそ生まれたロマンチックな音楽」
  • シェーンベルクの悲劇。音楽の歴史を前進させるために、前衛的な技法を生み出したが、それが結局歴史の終わりを早めてしまった。
  • 1950,60年代のモダンジャズは芸術化したが、やがてクラシックと同じ歴史をくりかえし、前衛と娯楽に分化した。

クォンタム・ファミリーズ

夢中になって、一気に読んでしまった。

東浩紀自身の分身のような哲学者・批評家・小説家葦船往人とその家族たちがパラレルワールド間を行き来し、時代を飛び越え、新たな家族の絆を模索する本格SF(Speculative Fantasy)。量子回路のネットワーク、人間の意識を媒介にしたパラレルワールドというSF(Science Fiction)的な道具立てもさることながら、描かれている並行や未来の世界のリアルさは東浩紀の面目躍如たるところ。そこまでは予想通りだったが、物語を語る力の強さに驚いた。東浩紀は、詩人ではなくストーリーテラーだった。

ストーリーはマルチエンディングのゲームブックみたいな構成をとっている。いくつかのバッドエンディングを経て、最後に真の(それなりに苦い)エンディングにたどりつく。そこで、「ゲームはいつか終わる。ゲームを続けるためにはリセットをかけなくてはならない。それがゲームであることを思い出さなければならない。ゲームをプレイし続けるためにこそ、虚構の世界で生き続けるためにこそ、ぼくたちはつねにリセットボタンに手をかけておかなければならない」と、倫理が不可能になってしまう「世界の終わり」の中で倫理的に生きることを可能にするリアリズムが力強く宣言される。

個人的に好きなのは、風子が日本各地の廃村を巡礼のようにめぐる場面だ。(セカイカメラみたいな)拡張現実で、過去そこを訪れた人たちのつぶやきが、幽霊の声みたいに響くという着想がすばらしい。

これから定期的にこのレベルの作品を産出していけば、東浩紀の名は批評家としてではなく小説家として記憶されるかもしれない。

ヘヴン

同級生からひどいいじめをうけている中学生の少年のもとに「わたしたちは仲間です」というメッセージが届く。会いにいってみると、同じようにいじめられている同級生の少女だった。ぼくだったら、同病相憐れむという感じがして、かなりがっかりすると思うが、このコジマという少女は単なるいじめられっこではなく、自らの意志で自分にスティグマをつけ、いじめを試練であり意味があるものとして引き受けつつ、それを乗り換えることで、自分を強者だと思っているやつらに復讐しようとしているのだった。

コジマの考え方は、ニーチェ風にいえば、僧侶的なルサンチマンで、弱さと強さを転倒させようとしているのだ。少年は違和感を感じながらも、コジマの弱さ=強さに惹かれてゆく。

夏休み、二人で「ヘヴン」という絵を見にいくという結局中途半端に終わってしまったイベントをはさんで、秋をむかえると、二人の間に溝が広がる。コジマはどんどん過激に弱さ=強さに磨きをかけ自らの信念を強めてゆき、少年は日々のあまりの苛酷さに「信仰」を失いはじめる。そんな中、少年は偶然いじめをしている側の同級生の一人百瀬に会い、話をする。彼は、いじめていることも、いじめられていることも、すべては偶然であり何の意味もない。善悪なんてものも、自分の都合で世界を解釈しているだけに過ぎないと、ニーチェみたいなことをいって、せせら笑う。左右の耳元でささやく天使と悪魔みたいに、まったく正反対のコジマと百瀬の言葉が少年の頭の中に響く。

クライマックスで、コジマはその弱さ=強さを最大限に発揮して、完膚無きまでの勝利を収める。そして少年は自分がその勝利の中に入り込めないことを知る。

そして、ラスト、新たに見いだされたあるがままの世界の美しさに、少年は目を見ひらく。この情景の描写はほんとうにすばらしい。しかし、それはコジマとの間の二人の世界「ヘヴン」から追放されたのと引き替えに得た美しさだった。

たまたまクリスマスの日に読み終えたので、自分へのいいプレゼントになったような気がする。象徴的で、とてもよく練り上げられた物語だった。

時間のかかる読書―横光利一『機械』を巡る素晴らしきぐずぐず

横光利一(1898-1947)の代表作のひとつである、『機械』という、三段組みで詰め込めば14ページにしかならない中編小説を、月1回の雑誌の連載の中で、11年間132回読み続けたエッセイをまとめた本。『機械』本編も収録されている(青空文庫でも読めるが)。

最初の3回は全然違う話題に終始して、実際に読み始めるのは4回目からだ。そこに書いてある『機械』のあらましを引用すると「ある偶然によって、ネームプレートを作る工場で働くことになった『私』が体験した、工場の『主人』の発案による画期的なネームプレート製作の技術を巡って、それを盗み出そうとする者、守ろうとする者によって展開される心理戦」。これだと、虚々実々の駆け引きが入り乱れるサスペンスみたいだが、もっととらえどころがない不思議な味わいの作品だ。

ひとつの冗談、「誤読」と筆者自らがいうように、最初あえて読みを迷走させているような印象があったのだが、回が深まるにつれ、この速度で読み進めなければ気がつくことができなかった細部にスポットがあてられるとの同時に、時間と空間の不確定性、登場人物の「狂気」や身体性の欠如など、『機械』のコアな部分に切り込んでいった。

もちろん、最後まで読み進めても『機械』のすべてが解き明かされたわけではなく、むしろ細部がみえてきたことにより謎は深まった気がする。

考えてみると『機械』は、ネームプレート工場で起きる出来事を、自分が登場人物であることを忘れてまるで本のように読む男の物語だった。この『時間がかかる読書』は彼以外のあらたな読者=語り手を登場させる試みだったといえるかもしれない。そしてぼくらは『時間がかかる読書』を読むことにより、潜在的に次の世代の読者=語り手として開かれる。さらに謎を深めるために。

燃える天使 (角川文庫)

13人の作家による15編の短編、エッセイを柴田元幸が編訳した作品集。アメリカ人5人、イギリス人4人、アイルランド人2人、オーストラリア人とブラジル人がそれぞれ1人ずつという構成だが、スチュアート・ダイベック(相変わらずいまひとつピンとこなかったが)以外は聞いたことのない名前ばかりだった。

作風も作家自身の少年、少女時代を描いたリアルなものから天使が火の周りを飛び回る幻想的なものまで様々。一番印象に残ったのはシェイマス・ディーン『ケイティの話 1950年10月』という古典的なゴーストストーリー。幼い姉弟だけが住む家に彼らの世話をするために若い女性が住み込み、恐ろしい体験をするという、ヘンリー・ジェームズの『ねじの回転』へのオマージュ的なシチュエーションで、髪の色や性別が入れ替わったりするエピソードが印象的だった。

愛でもない青春でもない旅立たない (講談社文庫)

脱力系のユーモアと、底抜けにラディカルなシュールさが特長の劇団五反田団を主宰する前田司郎の処女小説が文庫されたというから読んでみた。

主人公の「僕」は大学5年生。何かに夢中になることもなく、学校もバイトもさぼり気味、恋愛もまた流されるまま。そんな怠惰な日常を描いた私小説的な[主人公が住んでいる場所や通っている大学のある場所が著者自身と共通している]青春小説なんだけど、ときおり夢とも現実ともつかない不思議な幻想描写が挟みこまれる。そういうところは幻想的な作風の日本の女性作家たち、特に川上弘美を彷彿とさせるけど、もっと硬質というか手触りがはっきりしているような印象を感じた。

道徳は復讐である―ニーチェのルサンチマンの哲学 (河出文庫)

永井均のニーチェに関する本を読むのは『これがニーチェだ』に続いて二冊目、内容的には目新しいところはそれほどなく、パフォーマティブな変奏曲集という感じだ。

何度目の当たりにしても、現在公認されている倫理や道徳というものが、ルサンチマン[現実の行為によって反撃することが不可能なとき、想像上の復讐によって埋め合わせをしようとする者が心に抱き続ける反復感情]による価値の転倒の結果生まれたもので、あたりまえになって目に見えなくなっているというニーチェの洞察はものすごいし、そのニーチェを誤解してかぶれる人やニーチェ自身のルサンチマンを指摘する永井均の洞察はさらにすごい。

ハンガーストライキという闘争の手法がなぜ有効なのか?現実に強者であるにも関わらず、自分を弱者になぞらえて、二重に勝利を味わう人々。考えさせられる。

文庫版のみの付録である、川上未映子との対談がよかった。彼女の作品はほとんどまだ読んでないけど、物事を根源的に考えることのできる希有な人だなと思った。今度、彼女の作品もちゃんと読んでみよう。

ザ・ロード

久しぶりに心がうちふるえる読書体験だった。

世界の終わりを描いた文学作品は数多くあれど、これはその中でも究極的に苛酷な状況。

おそらく核戦争で地球が焼き尽くされてから何年かが経過したあとの世界。核の冬により気温が急激に下がり、動植物はほぼ絶滅している。ごく少数の生き残った人間たちは、残り少ない食料をめぐって万人の万人に対する闘争状態におちいり、食べるために人を襲う人食い集団が跋扈する。そんな中を、父と少年の二人は少しでも暖かい土地を求めて南へ徒歩で旅する、「火を運び」ながら。

読点と会話の括弧を省いた緊張感と比喩にあふれる独特の文体で描かれた終末の世界は、読む側にとってもとても苛酷で、すべての希望を捨てて、ページをめくっていた。しかし、読み進めるうちに、どんな悲惨な状況になっても純真さと善良さを失わない少年の存在が、かすかな光を放ち始めた。

読み終わってはっきりわかった。「火」というのは生命そして言葉のことであり、彼らはそれを運んでいたのだ、南ではなく未来へと。

クワイン―ホーリズムの哲学 (平凡社ライブラリー)

日本では、アクロバティックな言葉のパフォーマンスをくりひろげる、フランスを中心とした大陸系の現代哲学ばかりが紹介されてきたけど、それとは別に、英米ではもっと地道に、言語や論理についての研究が進められてきた。分析哲学あるいは言語哲学と呼ばれる分野だ。

もともと数学や論理学が好きだったぼくは、自然とそちらの分野にかする本を読んだりしていたが、そうすると必ずといって登場するのがこのクワインの名前だった。ずっと気になっていたので、どういう業績をあげたか知りたくて、本書を手に取った次第。

クワインは1908年に生まれ2000年に亡くなったアメリカの哲学者で「ホーリズム」という立場を唱えたことで知られている。ホーリズムについて触れるには、まずそれ以前分析哲学の世界で主流だった論理実証主義について触れなくてはいけない。

論理実証主義は20世紀初頭のウィーンで起こった哲学の革新運動である。ウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』の衝撃などを背景に、「哲学問題」というのは世界のあり方の問題ではなく、それを語る言語の側の問題ではないか(「言語論的転回」)という提起をして、従来の観念的な形而上学が無意味であると断じる一方(「語りえぬものについては沈黙しなければならない」)、世界について語る明晰で確固とした体系を作り上げようとする。つまり世界のほとんど(すべてでないのは無意味であるとして排除した部分があるため。たとえば、人間の心の中の観念)を明晰な言葉で記述し尽くそうとしたのだ。ナチの台頭にともない、この運動は英米に場所を移し、冒頭に書いたような状況がうまれる。

クワインも当初論理実証主義を奉ずる一員だったが、「経験主義の二つのドグマ」という論文で袂を分かち、クワイン独自の、のちに「ホーリズム」とよばれる考え方を提唱する。論理実証主義は、すべての命題は分析命題(文字面だけで真偽が決まる命題)と総合命題(体験により真偽が決まる問題)に分けられると考えていたけど、クワインは分析命題という概念そのものが循環論法を引き起こしてしまうことを示し、残る総合命題もそれ単独ではいくら体験を重ねてみても真偽は定まらず、複数の命題をまとめた信念の体系全体として真偽を判断するしかないということを示した。

言葉単体に固定した意味などなく、ほかの言葉との関係で意味が定まると考えるとわかりやすいと思う(正確には「意味」ではなく「真偽」なんだけど、とりあえずこう考えた方が直感的でわかりやすい)。たとえば「A社の製品は洗練されている」という文の「A社の製品」にどんなものが含まれるかは他の文を参照する必要があるし、「洗練されている」というのもほかにどんなものが「洗練されている」ことになっているのかで意味が定まる。論理実証主義は、アプリオリな事実や体験という基盤で意味が定まるとしていたけど、ホーリズムでは文同士が相互依存的にその意味を支え合っているようなイメージだ。

返す刀でクワインは、いくらデータを緻密に集めても、それらから帰結する理論は複数ありうること(理論の決定不全性)と、複数の言語の間で翻訳を行う規則もまたひとつに定まらないこと(翻訳の非確定生)を示した。

また、伝統的な哲学の課題である存在論(何が存在するといえるのか)と認識論(いかにして認識がなりたつか)についてもコミットしていて、前者については「われわれが肯定する文の一つ一つについて、それが真となるためには、量化の変項が及ぶ範囲の中に含まれていなければならないもの」というぶっちゃけ、あるということになっているものがあるというようなことをいい、後者については、自然科学の成果を積極的に利用して、人間の認識は普遍的なものではなく、進化の中で偶然的に獲得したものにすぎないという自然主義な見方を示した。

ここまでが本書に書かれていた彼の業績をぼくなりにまとめたものだ。

明らかに相対主義的、分析哲学界のポストモダンといっていいのではないだろうか。だからといって、なんでも疑ってかかれというような懐疑主義ではないし、真実は決してつきとめれないというような悲観主義でもなく、クワインは、アメリカ人らしくあくまでプラグマティックに、コミュケーションできていればそれが正しいというようなことをいっている。

さて、本書は入門書だし、ぼくはそれすら完全に理解できたわけではないのに、こんなことを書くのもなんだが、クワインの理論はクワインの信念の範囲では完全に正しい。が、ぼくにはその外側があるように思われる。

ひとつはクワインの延長線上の話で、クワイン自身も実は考えていたり書いていたりするのかも知れないが、言語とか信念の体系はもっとダイナミックに常に変更されているものだと思う。極端にいえば、ひとつの文を使っただけでも、その瞬間に微妙に意味が変化するし、まして他の言語との間に翻訳の方法がいったん確立してしまえば、それは二つの言語をあわせた新たな言語が誕生したといってもいいほどの変化を双方にもたらすと思う。このあたりの話をクワインの理論がとらえられているのかが気になる。

もうひとつは、論理実証主義者が『論理哲学論考』に書いてあるのにあえて無視した問題----独我論だ。クワインも当然のように無視した。確かに他人の心の中は形而上学だが、自分の心は体験できるものなのだ。それはほんとうに無意味といって切り捨ててしまっていい問題なのだろうか。日本では永井均が「この私」という表現を使って、この問題を引き継いでいる。クワインが切り開いた地平から、永井均の議論をあらためて眺めてみると、より深く理解できるような気がする。

失踪者―カフカ・コレクション (白水uブックス)

従来、『アメリカ』という名前で知られていて、ぼくもそのタイトルで読んだことあるのだが、この間ナイロン100℃の『世田谷カフカ』という舞台でこの作品のストーリーがなぞられているのをみて、そのあまりのめくるめく不条理感覚と、それを自分がほとんど忘れていること両方に驚いた。

まずタイトルについては、カフカ自身は『失踪者』というタイトルをつけていたらしいが、遺稿をまとめた友人のマックス・ブロートはそれを知らずに『アメリカ』として出版したのだそうだ。その際、カフカが未完のまま遺した草稿を取捨選択、再構成したわけだが、本書はカフカの書いたまますべて収録というのがコンセプト。

でも、それで大きく印象が変わるわけでもない。末尾の「二日二晩の旅だった」という非常に短い断章が収録されていることで、より未完らしさが高まったことくらいか(訳者の池内紀が逆に「自然な終わり方」というのもうなずけるけど)。だから、この作品のすごさを最初『アメリカ』を読んだときに気がついてしかるべきだったということだ。

故郷のチェコで年上の女中にいいよられて子供ができてしまったことで、両親からアメリカに放逐されたカール・ロスマンという少年が主人公。船でニューヨークにたどりついた彼は運良く上院議員をしている伯父とめぐりあう。ところが不可解な理由でこの伯父からも見捨てられ、彼は身一つでアメリカを渡り歩くことになる。ルンペンたちとの旅、ホテルのエレベータボーイ、ブルネルダという太った女性の付き人、巨大な劇場の技術労働者......。

伯父から見捨てられる原因となる、カールが訪れたニューヨークの別荘の迷宮、競馬場の馬券売場を採用窓口にするオクラホマ劇場、そしてそのオクラホマ劇場の天使の姿をしたトランペット楽隊、高層アパートのバルコニーから見下ろす喧噪に満ちた選挙パレード。みずみずしい奇想に満ちている。

カフカ自身はアメリカに行ったことはなく、当然この小説に書かれているアメリカの描写すべて空想だ。後年に書かれた『審判』、『城』と同じく本書も、官僚制からよそ者として疎外されてしまった人の悲喜劇という構成をとってはいるけど、その官僚制は単一のきっちりしたものじゃなく、カールは船、伯父の家、ホテル・オクシデンタル、オクラホマ劇場という複数の官僚制の間を、疎外されては他へ移動するということを繰り返す。『審判』、『城』では疎外されてしまうと、死か膠着状態しかないのだが、『失踪者』では流動することができる。それがカフカの考えたアメリカの「自由」かもしれない。

ただし、最終的に自分を受け入れてくる場所が見つからなければ名前を失ったまま放浪し続けるしかなく、最終的には死が待っているだろう。そのあたりのストーリーのプランが『失踪者』というタイトルに込められていたような気がする。それは『審判』のように官僚制によって与えられた死ではなく、「自由」の結果としての死だ。カフカは、その死後勃興したナチスや共産主義国家の悪夢を予見したといわれることがあるけど、アメリカ的な「自由」がもたらす悪夢もまた同時に見通していたのかもしれない。

現代日本の転機―「自由」と「安定」のジレンマ (NHKブックス)

長引く不況からなかなか回復できず、さまざまな問題が山積する現代日本社会。そうなった経緯や背景が共有されないまま、ぞれぞれの立場に応じた被害者意識ばかりが増長し、一部には何の根拠もない陰謀論や妄想がまかり通っている。本書は、ここ数十年の歴史を振り返ることで、そんな現状を理解するための展望を与えてくれる本だ。

まず、世界的な動きをみておくと、第二次大戦後、東側の社会主義諸国への対抗という面もあり、西側諸国は福祉国家の構築に向かうが、1973年前後の石油危機やそれに伴うアメリカの政策変更により、福祉水準を切り下げ、雇用を流動化させる新自由主義な政策へと舵をきる。

日本は戦後高度成長が始まる頃から、「日本的経営」(終身雇用、従業員福祉への配慮)、「自民党型分配システム」(公共事業による中央から地方への分配)、『日本型福祉社会」(核家族を前提とし、夫が安定した雇用から収入を得て妻子を養い、妻が家事、介護など家庭内の仕事を行う)という3本の柱からなるシステムで運営されてきたが、1973年の転換は、福祉の費用が安上がりですむという利点から、むしろこのシステムを強化する方向に働き、「超安定社会」とでも呼ぶべき社会を生み出した。

そして、このシステムを日本独自のすばらしいものであると礼賛する「右バージョンの反近代主義」と、その不自由さを批判する「左バージョンの反近代主義」[あまり「反近代主義」という用語にはこだわらなくてよくて、裏表の関係というところに意味がある。]という対照的な政治的な立場が生まれる。後者は結局のところ「超安定社会」が存続することを前提にしたものであり、個別的利己主義をめざす、着地点のない「見果てぬ夢」をみているようなものだったと、筆者は手厳しく指摘する。これら二つの立場の間には実質的な対立点はなく、外交、国防、アジア問題等、実質上選択肢の幅が狭い問題について象徴的な論争をくりひろげているだけで、同じコインの裏表のようなものだった。

バブルがはじけ不況に突入して何年かがたつと、もうこの「超安定社会」ではたちゆかないことがはっきりしてくる。そこで諸外国に比べて30年近く遅れて登場するのが、小泉政権のおこなった新自由主義の政策だ。この政策は一部効率化をもたらしたが、もともと会社と核家族に福祉を頼ってきたつけで、若い世代を中心に「安定」からこぼれ落ちてしまった貧困者を生み出し、社会問題化した。

現状は、新自由主義に対する反省から、ノスタルジックに「超安定社会」の復活を願っている人たちが増えているが、もともとこれは画一的な社会構想に基づく不平等な身分制の社会だったし、偶然の産物だった。今更戻ろうとしても戻ることはできない。かといってかつてそれに対抗する軸だった「自由」という理念も「安定」が崩れ新自由主義の嵐が吹き荒れた後では、意味をもたなくなっている。

という過去にあったどの道も行き止まりになっている姿が現状の見取り図だ。だが、こうして歴史的経緯をたどることで、とても見通しがよくなって目の前が明るくなった気がする。最後に筆者は次のように締めている。とてもよい文章なので引用する。

ここに至るまで、日本人は多大な自国民の人名を失い、周辺国に深い恨みを買い、反省し、豊かにはなったが古い共同体を失い、、その後も夢を見ては裏切られてきた。これらすべてが、非西洋において近代化を成し遂げ、幾度かの大きな過ちを経ながら、、百余年をかけて日本人が得た、他国に前例のない経験知である。ここに到達したことに、日本人は絶望するのでも、他者を羨んだり蔑んだりするのでもなく、誇りと自信を感じながら、熟慮と討論を重ね、手探りで前進すれば良いのである。

結構目から鱗のことが多かった。今の日本が良きにつけ悪しきにつけこういう姿なのは、過去の(少なくとも当初は)意図的な政策の結果なのだ。翻れば、これからとる政策がこれから何年もあとの日本の姿を決めていくということで、政治はほんとうに重要だと思う。

用語が専門的で独自だったりするのが玉に瑕だが、できるだけ多くの人に読んでもらいたい本だ。

世界のすべての七月

村上春樹の創作の秘密を知りたいのなら、彼が翻訳した小説を読めばいいのかもしれない。人物描写とか会話、比喩などそこかしこに村上春樹らしさの断片がちりばめられていて、翻訳でなく村上春樹の作品を読んでいると錯覚する瞬間が何度かある。

1969年に大学を卒業した同級生たちが、2000年7月、久しぶりの同窓会に集う。戦争、恋、結婚、別離、真実、嘘、病気、死。参加者それぞれの過去と現在の7月が語られる。人生に翻弄される彼らとは別に、それぞれの物語には時間の流れから超越してすべてを見透かしているかのようにみえる奇妙な人物たちが登場する。

戦場で瀕死のデイヴィッドの耳元で救いのない予言をささやきその後も幻聴の中でずっとつきまとうアナウンサー、ジョニー・エヴァー。さえない女子学生ジャンにひとときの夢とそのあとに続く長い幻滅をもたらした身長138cmの「リトル・ピープル」アンドリュー。不倫相手の不慮の死で動揺するエリーのもとにあらわれた謎の警官。乳癌で片方の胸を切除して無力感から家庭を捨てようとするドロシーに冷たい予言をつげて思いとどまらせる、元軍のスナイパーだった隣人フレッド。年齢、容姿はことなるけど、彼らの存在の不気味な感触はみな共通している。たぶん、『1Q84』の中に登場する「リトル・ピープル」という着想の源流のひとつがこの本にあるのはまちがいない。[もともと「リトル・ピープル」という章があるという話をきいて、この本を読もうと思った。]

彼らは秩序を守る側の存在だ。いつ何が起きるかということを完璧に把握して、監視し、時には干渉してそうなるように方向づける。壁と卵でいえば明らかに壁だ。彼らは死こそが常態だから何も恐れることはないんだよと穏やかな声でささやき続ける。それに対して生の側、卵の側があげる抵抗の声はどこか野卑で、しかもその抵抗は長期的には負けることが宿命づけられているものだ。本書は、時間を司るリトル・ピープルとそれを超えようとする人間の間の勝利と敗北をとりまぜた戦いの記録であり、『1Q84』もまたそうなんじゃないかというのが、とりあえずのぼくの仮説だ。

白鯨 上 (岩波文庫) 白鯨 中 (岩波文庫) 白鯨 下    岩波文庫 赤 308-3

日本語圏ではあまりそういうのはないけど、英語圏には読んでいて当然とされている本がいくつかあって、聖書を筆頭に、ギリシア・ローマ神話、シェークスピア......そしてこの『白鯨」もそのひとつだ。冒頭の「わたしを「イシュメール」と呼んでもらおう」という言葉は有名すぎるほど有名でさまざまな文学作品でオマージュ的に使われたりテレビドラマのセリフとして出てきたりもしている。またコーヒーチェーンのスターバックスの名前は本書の登場人物のひとりスターバック[本書の舞台となる捕鯨船ピークオッド号の一等航海士]にちなんだものだ。

白鯨モビー・ディックに片足を奪い取られた捕鯨船の船長エイハブが復讐の念に駆られ、モビー・ディックを追い詰めるが、逆に船もろとも全滅させられてしまうという、ある意味とてもシンプルなストーリー(これは巻頭の登場人物の説明のところで早々と明かされてしまう)。ただ、そのストーリーが預言として成就していくところのシンボルとイメージの連鎖がものすごいし、エイハブをはじめとする登場人物たちの吐く実存的なセリフが奥深い。

あっけにとられるのは、本書の中でそのストーリーに関連する部分がかなり少ないことだ。全135章(+エピローグ)の冒頭の20章くらいまでは、物語が本格的にはじまったあとは純粋な語り手となって存在感をほとんどなくしてしまうイシュメールの小冒険譚で、ようやく出港するのが22章、実質上の主人公エイハブが登場するのは28章だ。また合間合間に鯨や捕鯨に関する博物学的または文献学的な説明を披露する章がまぎれこむ。それ以外の主要人物が登場する章だって、ストーリーの進行に意味をもつかといえば微妙で、おそらく現代の文芸誌の編集者のところに持ち込んだとしたら六分の一くらいに削られて薄手の文庫本一冊にされてしまうのではないだろうか。

逆に、そんな風にストーリーを無視して、自由自在に語ってしまうところが、現代的な気がして、1850年に書かれたとは思えない。本文の中にも言及があるが、そのころまだ日本は鎖国をしていたのだ。

個人的に鯨を殺すシーンに強く心を動かされた。メルヴィルは実際に捕鯨船員を経験しただけあって、鯨が大量の血を流しながら死んでゆくところが緻密に描かれているのだ。捕鯨に反対する声に対し、ビフテキばくばく食べながら何言っているの、という指摘は正当だし、ぼくも論理的にはその通りと思うんだけど、より大きなものの命を奪う方が罪深いという迷信を思わず信じてしまいそうになる。『白鯨』が書かれた時代のように、人間の方も命をかけていたときは、まだ正々堂々とした勝負の結果としてその死に様を見ていることができたが、いったん人間が優位に立ってしまってからは、だんだんつらくなってきてしまったというのも、だんだん捕鯨が行われなくなっている理由のひとつなのだろう。

日の名残り (ハヤカワepi文庫)

長年ひとつの屋敷に勤め上げ老境にさしかかった執事ミスター・スティーブンスが、イングランド西部地方を自動車で一人旅する。彼の目に映るのは現在(1956年が舞台)の風景より、過去の思い出だ。最初、自らの高い職業意識と、かつての主人ダーリントン卿に対する尊敬の念が語られて、失われゆく時代、文化に対するノスタルジーがテーマのちょっとアナクロな作品なのかと思わせるが、だんだんこのスティーブンスがミステリーなどでいうところの「信頼できない語り手」であることが明らかになってきて、これがまぎれもない現代の小説であることがわかる。

ダーリントン卿は結果としてナチに協力してしまったために名誉を失った人間だし、スティーブンス自身も、執事という殻の中に閉じこもって、その殻を通してのみ世の中と関わっていた孤独な人間にすぎなかった。そんな彼が、はじめて殻から飛び出ようとした試み、それがこの旅行だったのだ。その最大のイベントは、昔一緒に働いていた女性ミス・ケントンを訪ねることで、道中反芻する思い出の半分近くが彼女に関するものだ。彼女に出会うことで、彼はあらためて、自分にはもうなにひとつ残されていないことを悟る。その衝撃の深さが丸一日あいた語りの空白で示される。

ミスター・スティーブンスという一個人の半生を描きながら、執事という、紳士の皮をかぶりながらブルーカラーでもあるキメラ的な立場の人間を描くことで、イギリスの階級社会のある側面をえぐってみせてくれたような気がする。「すごい」というより「うまい」というタイプの作品。そのうまさがとことん洗練されていて、現代のディケンズという称号をあげたくなった。さすが、村上春樹がファンだというだけのことはある。

田園の憂鬱 (新潮文庫)

『美しき町・西班牙犬のいる家』を読んだ直後くらいに読もうと思っていたのだが、なかなか置いている本屋がなくて一年近くたってしまった。

作者の佐藤春夫自身とおぼしき神経衰弱気味の男が癒しをもとめて、東京近郊の農村に妻と犬猫ともども移り住むが、かえって状態が悪化して、妙な幻聴が聞こえたり、幻覚がみえたりするようになってしまうという、いってみれば身も蓋もない話。

といっても別に田舎の村で何かが起きるわけじゃなくて、ほとんどの出来事は彼の頭の中で起きている。神経衰弱が悪化した原因が田舎暮らしのせいではないというのは続編に『都会の憂鬱』という作品があることからも、なんとなくうかがえる。

そんな肥大した自我の影で、ほかの人間たちの扱いは限りなく小さい。特に彼の妻なんかはもっと重要な役割をになってもよさそうなのに、彼の理不尽な怒りにおびえてすすりないたりするだけの影の薄い存在だ。話は脱線するが、過去にたくさんいた虐げられた立場の女性たちが一方的に支配されただけかというとそういうわけでもなくて、たとえばその涙により空気を変えることにより間接的に男を支配してきたんだろう。それで相互依存的な関係が成り立っていて、うまくいっているといえなくもないんだけど、お互いにとって幸福とはいえなかったんじゃないだろうか。描かれてないけど、実は彼の神経衰弱の一因もそこにあったのかもしれない。けんかになってたとえ別れることになったとしても、いいたいことをいいあった方がはるかに健全だと思う。

老成といっていいような洗練された文体や、渋い行動パターン、それに杖を持ち歩いていたりするところから、主人公を疲れ切った中年男だと思っていたが、なんと20代前半の若者だった。そう思って読むと、かなり印象がかわった。

さて、散歩マニアのぼくとしては、当然彼らが住んだ村がどこにあるのかが気になる。「広い武蔵野が既にその南端となって尽きるところ」、「それはTとHとYとの大きな都市をすぐ六七里の隣にして」という表現から横浜郊外だろうと思ったら、解説に「神奈川県都筑郡中里村鉄」と書いてあった。今でいうと神奈川県横浜市青葉区鉄町あたりらしい。航空写真でみてみると、今もまだ農地や林が残るのどかな場所のようだ。今度いってみよう。

人類が消えた世界 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

人類が今突然あとかたもなく消え失せたら、地球はどう変化するのだろう?都市は速やかに崩壊し、地表はほとんど森に覆われる絶滅寸前の動植物も息をふきかえす。本書の冒頭で予言されるそんな情景を思い浮かべると、感傷と安堵がいりまじったような複雑な気分になってくる。

しかし、本書のトーンは人類という死者を悼むような甘ったるいセンチメンタリズムではなく、マンモス、サーベルタイガー、リョコウバトなど人類が絶滅に追いやった数々の生物種、プラスチック、化学物質、放射性廃棄物などの人類がいなくなって後もなかなか消え去らない負の遺産、そして人的要因による気候の変動などにスポットライトをあて、むしろ人間の罪深さを告発するような内容になっている。

そして、単なる思考実験であるかのように最初に設定された、人類が滅亡するというシナリオが、実はそんな荒唐無稽じゃなくて、自らが行ってきた行為のつけとして十分あり得るということが暗に示されてゆくのだ(もちろん、静かに消え失せるというのは超楽観的な想定で、ほとんどの場合断末魔の中で地球にさらにたくさんの傷を負わせることになるだろう)。

綿密で冷徹な筆致で描かれた、自分たち自身の生前葬のためのレクイエム。

ニッポンの思想 (講談社現代新書 2009)

佐々木敦さんのことを知ったのは、TBSラジオで毎月一回深夜に放送されている文化系トークラジオ Lifeという番組がきっかけだった。サブパーソナリティーとして番組に出演していて、ラジカルで鋭い話しぶりにすごい人だと思っていたが、たまたまこれまで著書を読む機会がなかった。基本的に音楽、文学、映画等のカルチャーに関する批評をしている人だが、本書のテーマはタイトルからわかる通り、「思想」。どんな切口で料理するのか気になって。発売された直後に書店にかけこんで購入したのだった。

1980年代からゼロ年代までのニッポンの思想シーンを年代ごとに3つに区切って、それぞれの年代に活躍した思想の「プレイヤー」とその「パフォーマンス」をくくりだし、そしてその変遷のメカニズムを「シーソー」という比喩で説明している。

80年代のプレイヤーは、「ニューアカ・カルテット」、浅田彰、中沢新一、蓮實重彦、柄谷行人の4人。現状を乗り越える思想であるはずが、当時隆盛をほこった消費社会の肯定・礼賛と受け取られてしまった悲喜劇として語られる。

90年代は福田和也、大塚英志、宮台真司の3人。80年代ニューアカが抱いていた楽観的なヴィジョンは経済状況の悪化もあってことごとく裏切られ、「理念」より「現実」というシーソーが作動する。その中から出てきたこの3人は、表面上の立場の違いはあれ、日本という場所に生まれたことを宿命として受け入れる点では共通している。ここでは、95年のオウム事件が思想シーンに与えた衝撃、そしてそれによって浮かび上がるニューアカの限界についても語られる。

ゼロ年代は東浩紀のひとり勝ち。本書で80年代からの思想の歴史が語られてきたのは、いわば、なぜ東浩紀がひとり勝ちをしているかを解き明かすためだった。

ゼロ年代に入り、出版不況などがあり、思想においても、売れている、売れていないという市場原理が前景化するとともに、規模としては縮小に向かった。そんな中、そのときどきのアクチュアルな問題に迫りながら、従来のゲームボードに見切りをつけ、新たにゼロ年代のゲームボードを構築したのが東浩紀だった。というような中国の王朝交代時に書かれる史書のようなラストで締めくくられる。いわば本書は東王朝の正史だ。

ほんとうに全編刺激に満ちていて一気に読み通してしまった。

筆者によると80年代の思想は「現状」に対して批判的だったが、90年代は留保付きで「現状」を肯定するようになり、さらに、ゼロ年代は、「こうだからこうなのだ」と「現状」を受け入れるだけになっている。正直、とても息苦しいのだが(かといって80年代にもどるというのもナンセンスだが)、何か抜け出す道はないのか筆者の佐々木敦さんにきいてみたい気がする。あとがきによると、近々、佐々木敦さん自身の思想が書かれた本が登場するらしい。楽しみに待つことにしよう。