読書ノートの最近のブログ記事

雨・赤毛 (新潮文庫―モーム短篇集)

サマセット・モームの作品を読むのは、中学生の時に読んだ『月と六ペンス』以来ではなかろうか。

雨あられと微妙に韻を踏んでいるけど、『雨・赤毛』という単独の作品ではなく、『雨』、『赤毛』それに『ホノルル』という南太平洋を舞台にした作品3編からなる短編集。いつになく本格的な梅雨に嫌気がさして、熱帯のバカンス気分にひたろうと思ったのだ。

20世紀に書かれたとは思えないくらいセンチメンタルな文体だし、偏見まじりのオリエンタリズムが気になったりもするが、ストーリーテラーとしての舵捌きはやはり見事で、湾内一周西から目線クルーズを楽しんだのだった。

町田康『浄土』

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浄土 (講談社文庫 ま 46-5)

ビバ!カッパ!ビバ!カッパ!ビバ!カッパ!ビバ!カッパ!ビバ!カッパ!ビバ!カッパ!ビバ!カッパ!ビバ!カッパ!ビバ!カッパ!ビバ!カッパ!ビバ!カッパ!ビバ!カッパ!ビバ!カッパ!ビバ!カッパ!ビバ!カッパ!ビバ!カッパ!ビバ!カッパ!ビバ!カッパ!ビバ!カッパ!ビバ!カッパ!ビバz

とコピペでなく手打ちで入力したくなるくらい(最後の誤入力がその証拠)、この短編集の中を流れる神々しいくらいのだめだめの美学に魅せられてしまった。

「死ぬかどうかは分からない。ただ、どんよりとした悪い感じが今後どこまでもつきまとう、ということだけは、なぜだかはっきりと分かった」(『犬死』)。「気を失う瞬間のなかの瞬間、俺は黄金の世界に行くのだ、どぶの水面下には汚物が蠢くのではなく、黄金の世界があるのだ」(『どぶさらえ』)。「おかしいのは男の脇にふたりの背いの低い、二十九歳くらいの女と三十二歳くらいの女がいて一心に踊りを踊っているということで」(『あぱぱ踊り』)。「ギャオスによって首都の中心部を無茶苦茶にされた我が国はギャオス出現以降急速に貧しくなり、自殺と殺人が急増した」(『ギャオスの話』)。「森ビル」(『一言主の神』)。「それでも温夫の首は暫くの間、けけけ、と笑い、紙屑をかさかさ言わせていたが、やがて静かになった」(『自分の群像』)。

よくもこれだけ鋭く的確に人間のだめだめを見抜き、描けるものだと感心する。

『本音街』という作品はほかのに比べて特にすぐれているわけでもないのだけど、人々が本音をいいあう街という設定がおもしろかった。それでつかみあいのけんかになるかというとさにあらず、別れ話をする男女、作品の評価をめぐって険悪な作家と編集者、どちらの場合でも、自分の意志を虚飾なく相手に伝えているので、それが通用する限界を理解し、互いに納得して別れてゆくのだった。もちろん現実にそうなるという保証はまったくないけど、空気を読み過ぎて息苦しいこの国の現状をみていると、一種のユートピアのようなすがすがしさを感じたのだった。また、本音というのは、インターネットの一部で通用しているような薄汚い言葉のことではなくて、意志を的確に伝える技術だということに目を啓かされた。

神を見た犬 (光文社古典新訳文庫 Aフ 2-1)

1906年に生まれ1972年に亡くなったイタリアの小説家ブッツァーティの短編集。

ブッツァーティなんて(日本人にとっては)とてもおぼえにくい名前だけど、難解なところはどこもなく、訳文もこなれていてとても読みやすかった。

おおざっぱにジャンルに関連づけると幻想文学ということになるらしいが、もうちょっと絞り込んでこんな感じというのは難しい。最初思いついたキャッチフレーズはイタリアの星新一だが、シニカルな視線や巧妙なオチは共通するものの、そこまで濾過されてなくてかなり土着的なにおいがする。聖人や教会に絡んだ話が多いので、カトリックのエバンジェリストかとも思ったが、神を擬人化したり司祭を茶化したりする描き方は正統的な信仰とは相容れないはずだし、特に道徳的な寓意が強調されているわけでもない。謎めいたストーリーにカフカを連想させるところがないではないが、根源的な不条理が描かれているわけではない。

まあ、そんなことを考えるのはやめて、一編一編の不思議な味わいを楽しめばいいんだと思う。

犬の記憶 (河出文庫) 犬の記憶 終章 (河出文庫)

森山大道本人の言葉を借りるなら、「自身の記憶に基づき、僕を通り過ぎた時間にあった幾多の出会いや出来事について、撮り、記すこと」というテーマはどちらの本も共通しているが、タッチはかなり違っていて、1980年代はじめに書かれた『犬の記憶』は、微細なひとつひとつの記憶の根源をクローズアップで深くえぐっていくような力のこもった文章だったが、それから15年おいた『終章』では、森山大道の半生を俯瞰して、関わった街や人物についてナチュラルに語っている。どちらも彼の写真同様、陰影に富んだ魅力的な文章で、思わず引き込まれてしまう。森山大道に限らず、おそらく、撮った写真と書いた文章は不可避的に同じ強さと弱点をもってしまうのだろう。

引用しがいのある文章ばかりだが、印象深い以下のパラグラフを載せる。

「国道を疾駆していると、一瞬の出会いののちにはるか後方に飛びすさっていくすべてのものに、とりかえしのつかない愛着をおぼえていいしれぬ苛立ちにとりつかれてしまうことがしばしばだった。(中略)。垣間見、無限に擦過していくそれら愛しいものすべてを、僕はせめてフィルムに所有したいと願っているのに、ほしいもののほとんどは、いくら撮っても網の目から抜けこぼれる水のようにつぎつぎと流れ去ってしまって、手元にはいつも頼りなく捉えどころのないイメージのみが、残像とも潜像ともつかない幾層もの層をなして僕の心のなかに沈み込む」。

人間以上 (ハヤカワ文庫 SF 317)

形式的には長編小説ではあるが、ひとつのテーマのもとに書かれた3つの中編小説といったほうが近いかもしれない。この作家の本領は短・中編と思ったぼくの直感はそれなりに正しかったようだ。

世間から見捨てられているが実は超能力をもつ子供たちが登場するいわばミュータントものなのだけど、特筆すべきなのは、彼らが集団でひとつの個体としてふるまうというアイデアだ。彼らはホモゲシュタルト(集団人)と呼ばれる。現人類にとってかわるべく、より進化した形態なのだ。

確かに、集団で行動することにより彼らのパワーは桁違いになるし、一人が死んでもほかのメンバーを加入させることにより集団としての生命は続くのだけど、別に変な風に融合したりするわけじゃなく、個人は個人のまま行動することもできる。ホモゲシュタルトは個体というよりはむしろ共同体だ。短編や中編でみてとれた人間同士の多様なつながりを模索するスタージョンの倫理的な姿勢がここにもあらわれている。

ホモゲシュタルトはどういう道徳をもつべきなのか、とスタージョンは問いかける。いわゆる「道徳」は「個人が生存するための社会のおきて」であり、たったひとりきりのホモゲシュタルトは持つことができない。「倫理」は逆に「社会が生存するための個人のおきて」だが、社会のないホモゲシュタルトには意味がない。そこで登場するのがエートス(本書では「品性」と訳されているがむしろ「規範」の方がしっくりくる)だ。それは、社会という水平方向ではなく、世代間をつなぐ垂直方向の信頼関係なのだ。

たぶんスタージョンはホモゲシュタルトのためではなく、ぼくらホモサピエンスのためにこんなことを考えていたのだ。あるいはホモゲシュタルトというのはぼくら自身のことなのかもしれない。

訳はかなりいただけない。この作品に限らず古典SFをまとめて訳し直すべき時期にきていると思う。

追記: 考えてみると、人類が進化すると集団的な形態をとるというのは、文脈次第ではコミュニズム賛歌とも読める。スタージョンはそのあたり意識的だったのだろうか?

戦後写真史ノート 増補―写真は何を表現してきたか (岩波現代文庫 文芸 132)

本書は日本の戦後の写真表現の歩みを概観しようとした本であり、太平洋戦争の終結から現代までを昭和20年代、30年代、40年代、50年代以降、そして1990年以降(岩波現代文庫収録にあたり増補された章)といういくつかの年代に区切って、そのときどきに活躍した写真家、起きたムーブメント、その文化的な背景を紹介している。

読みやすい文章でおもしろく読めたけど、掲載されている写真の点数が少ないのがちょっと残念だ。

タイトルに「写真史」とあるように、ここに書かれているのは歴史にはちがいないのだけど、歴史という言葉から受ける直線さをほとんど感じないのは、戦後だけに期間を絞ると、写真そのものには技術上も表現スタイル上もあまり大きな進歩がなかったせいかもしれない。ライカの登場でスナップ写真が簡単に撮れるようになったのが1920年代だし、カラー写真の一般化もアーティスティックな写真の世界ではあまりインパクトがなかった。表現スタイルに関しても、前衛的なものを含めて戦前にもう一通り出そろっていたのだ。

ひとついえるのは、戦後間もない頃は写真はジャーナリズムだったのが、途中からアートになっていったということで、それは写真という文化の表舞台が雑誌からギャラリー、美術館に移り変わったということからもわかる。

1990年以降の写真をあつかった最終章の最後の節はデジタル写真にあてられている。私見だと、デジタルだからといって質的に変わるものは特になく、ほとんど無尽蔵に写真を蓄積できるようになったというような量的な変化しかないと思っているが、その量がいつか質にフィードバックするというのも歴史の教えるところだ。

ひょっとすると、ゆくゆくこのデジタル化ということが写真表現の歴史のターニングポイントとして記録されることになるのかもしれない。

私の個人主義 (講談社学術文庫 271)

漱石が満州で行った幻の講演の内容が明らかになったというニュースが耳新しい今日この頃、ではまずとうの昔に発見済みの講演を読んでみようと思った。

収録されている講演は5編。最後の『私の個人主義』は1914年すなわち漱石の死の2年前に学習院の学生向けに行われた講演、そのほかは1910年に関西で一般聴衆向けに行われた講演である。

『道楽と職業』では、職業の分業化による社会の分断、今の言葉でいう島宇宙化への懸念が述べられるとともに、一般の職業では他人本意にならなくてはいけないが、芸術家、学者などは自己本位でなければ成功しえない職業だということがいわれる。

『現代日本の開化』。開化というのは、楽しいことを最大化するという積極的な行動と、義務的なことをできる簡単にすませられるようにする消極的な行動が複雑にからんでおきる。開化が進むと、生死の問題は超越しているが、競争が激しくなって、相対的な苦しさはかえって増している。特に日本では、外発的に十倍ものスピードで開化が進んできたので、どうしても上っ面ばかりおいかけることになってしまっている。ああ、大変だけど仕方がないねという話。

『中身と形式』。中身が先か、形が先か。それは当然中身にきまっているでしょう。中身が先にあって、それをわかりやすく単純化して形式ができた。だから中身が変わったら形式も変わらなくちゃいけないんだよという、きわめて穏当に聞こえるけど実はラディカルな講演。

『文芸と道徳』。浪漫主義と自然主義という文学上の流派になぞらえて道徳を語る。明治以前は人間としてあるべき理想的な型を設定して厳格にそれに沿うように強制してきたけど、明治以後はリアルに人間を観察してその本来の姿から道徳が構成されるようになってきているという。

そして最後の『私の個人主義』。前段は、自身の若い頃の体験を披露しながら、自分の進むべき道をみつけるためにどこまでもこだわれ、というアジ演説。今ならやりがいの搾取となじられそうだ。後段が、演題にある通りの「個人主義」に関する話で、利己主義なんかじゃなくて、他者の個性に配慮して、責任をともなうもので、国家主義と矛盾するものではないと説明しながら、やんわりと国家主義の欺瞞や道徳的低級さを指摘する。

今でもそのままで通用する議論ばかりなのがすごい。漱石の立場は当時の日本ではかなり少数派で孤立を味わいもしているようだが、弾圧もされず、講演に聴衆が集まるということは、当時の日本にもそれなりに民主的な空気があり、自由を享受できていたのだろう。それが、わずか20年後に戦争の時代に突入し、完全に後戻りしてしまったのは、いずれにせよ民意があってのことのような気がする。日本人は開化により利己的になることは覚えたけど、漱石がいう個人ということは理解していなかった。たぶん、利己主義と国家主義は相性がいいのだ。

漱石の話しぶりは確信に満ちている。その確信にはやはり「近代」に対する信頼があるのだろう。その「近代」に対する信頼がゆらいでうまれたポストモダンという潮流すらどこにいったのかよくわからなくなっている現代に、もし漱石がいたら、どういう話をしただろうか。

思想地図 vol.1 (1) (NHKブックス 別巻)

東浩紀、北田暁大両氏編集による論文誌の体裁をとった書籍あるいは、書籍の皮をまとった論文誌。第一弾は「日本」という一見とらえどころのなさそうなテーマだが、大きく、ナショナリズムと公共性の問題、およびサブカルチャーという二つの核をめぐる論文、討議録が掲載されている。

サブカルチャーは門外漢なので、前者について、乱暴にまとめるとこんな感じだろうか。

立場の違いを越えての共通認識は、グローバリゼーションの到来で、いわゆる国民国家という形はターニングポイントを迎えていて、日本でもまた、国家が担っていた公共性というものがリアリティを失いつつあるということ。

白井聡氏はその証左として、国民が分断化されセキュリティの保護のみ国家に要求するようになってきていることをあげ、「国民なきナショナリズム」と名付ける。それに対して中島岳志氏は「方法としてのナショナリズム」すなわち国民主権を実現するための動機付けとして草の根的な下からのナショナリズムを利用するという。国家とはフィクションではなく社会における暴力への権利の源泉となる実体だと強調する萱野稔人氏も同じようなスタンスか。これに対して東浩紀氏は、これまで公共性に対する関心なしでもうまくやってこれたのだから、いっそそれを推し進めて、リバタリアニズムが説くような最小国家にして、国家とは別の形で公共性を担保でないかという問題提起をする。突飛に聞こえるけど、それは、仮にナショナリズムを通じて公共性にたどりつけたとしても、誰がそのメンバーたり得るのかというメンバーシップ問題にぶつかってしまうことを意識しての発言で、本質をついている気がした。というのが、冒頭の討論『国家・暴力・ナショナリズム』。同様の議論は後半の鼎談『日本論とナショナリズム』にも引き継がれる。

関連して、白田秀彰『共和制は可能か?』では、日本で民主的な共和制を可能にするには、(戦前のように)捏造した仮構をおしつける必要があるという悲観的な結論になっていて、これもまた「方法としてのナショナリズム」の困難を示している。

中島岳志『日本右翼再考』。保守と右翼の違い。理性に基づく設計主義を疑うのは共通。前者は「漸進的改革によって秩序と維持と安定を図る立場」、後者は「理想の過去に対するユートピア志向」。設計主義的右翼の登場と挫折。その反動としての原理的右翼の「体制の論理」化とそれによる凋落。

高原基彰『日韓のナショナリズムとラディカリズムの交錯』。主に韓国側の事情を説明して、日韓に共通する左右のねじれ問題を解説している。分断国家である韓国では「国家主義」と「民族主義」が一致しないのが日韓両国の大きな違い。でも、保守派が開発主義」政策をとり、進歩派がそれに反対してきたのは共通。進歩派であるはずの金大中、盧泰愚が経済的には新自由主義政策をとった。新自由主義による流動性と不安感の高まりによって「開発主義」に対するノスタルジーが発生し進歩派に対する反感がうまれているのも共通。関連して、芹沢一也『<生の配慮>が枯渇した社会』では、日本において、社会民主主義的な福祉制度が発達せず、個人、家族、企業の自助や相互扶助にまかせてきた「伝統」が語られる。

思ったのは、「個人」というものが普遍的に存在すると思えるからこそ公共性というものがありえるのではないかということ。独断や思い込みをまじえてかもしれないけど、「個人」全体の集合を想定して、「わたし」ではなくときに「わたしたち」と語るときに、その複数形にあらわれるのが公共性なのではないだろうか。だから、公共性を私的な利益や特定の共同体の利益で基礎づけるのはまちがい。このあたりもう少し深く考えてみたいところだ。

書籍として拾い読みせずに最後まで読み通したけど、ほんとうは雑誌的に気に入った部分を気に入った順序で読むのがいいのかもしれない。

河岸忘日抄 (新潮文庫 ほ 16-3)

あわただしい労働の日々を抜けだし、異国の河岸に繋留された船の上で半ば隠遁生活を送る「彼」。彼は動かない船の中でただ「待機」する。一見悠々自適の毎日だが、静止した水鳥が水面下で激しく足を動かしているように、彼の思考もまた足下を深くえぐってゆく。それは「ぼんやりと形にならないものを、不明瞭なまま見続ける」ことであり、形にならないものとはおそらく「命の芯」のことだ。本、音楽、ときたま訪れる人々。それらによって船の外の河岸は自由に時空を移動する。

そんなふうにして、彼は内面に訪れていた「内爆」という危機をいったんやりすごす。でも、それで何かがはじまるわけではないし、終わりもしない。彼の年上の友人枕木さんがいうように、生きることとは外に身をおくことであり、外に身をおくことは、日常をあたりまえに過ごすことなのだ。

芝生の復讐 (新潮文庫 フ 20-3)

62編からなる短編集。1編あたり4ページ弱で綴られるのは、小説というよりむしろ散文で書かれた詩といった方がいいかもしれない。たとえるなら小説の川が詩の海に流れ込む直前に生息する珍しい微生物たちといったところだろうか。

ブローティガンの幼少時の記憶、家族の話、恋愛、知り合いから聞いた話などが、異世界の出来事のように語られる。一見穏やかな情景の中にちりばめられているのは、蜂や銃など一瞬で人生を破壊できるパワーをもったものたち。後年、ブローティガンが銃で自ら命を絶つことを思えば、なんだかとても意味ありげだ。

どん底 (岩波文庫)

ケラリーノ・サンドロヴィッチ演出の舞台をみて、どの部分が脚色でどの部分がオリジナル通りなのか知りたくなって、原作を手に取った。結論としては、ストーリーや重要なセリフの持つ意味などは変えられていないが、細部にはかなり手が入っていた。ギャグの部分が全面的に書き換えられているのは当然として、ロシアというローケーションや20世紀はじめという時代をあいまいにするため固有名詞が変えられたり消されたりして、登場人物たちの過去のエピソードも現代的になっている。また原作で指定されている劇中歌もなぜか有名なロシア民謡カチューシャにすげかえられていたのだった。

もっとも大きいのは、大河内浩が演じた衛生局の男、実は男爵の元執事の存在で、原作にはそんな人は出てこない。彼のせいで、終盤わざとらしいというか本質からそれたような盛り上がりをみせるんだけど、やっぱり嘘(というのも変だけど)の存在だったか。まあ、この戯曲のテーマのひとつは「真実」と「嘘」の対比なので、そういう嘘はぜんぜんOKだろう。というか、この物語自体、真実嫌いの老人ルカ(舞台では段田安則が好演していた)がついている嘘なのかもしれないのだから。

そのあとに続くエンディングは芝居も戯曲も同じで、ある登場人物の死の報せで幕が閉じる。老人ルカのついた罪のない嘘がかえって、彼を真実にめざめさせ、ちょうど第三幕で老人が話した「真実の国」の男と同じように自ら死を選んだのだ。なんだかとても皮肉な救いのないエンディングなのだ。しかも、そこにあるのは悲しみじゃなく滑稽さで、そのことがよりいっそう救いから遠ざけている。だからこそ、やっぱり嘘は必要で、その嘘は芝居や戯曲の中だけでなく、外にもちりばめられる必要がある。

このエントリーは本の紹介のはずだが、演劇のことばかり書いてしまった。

海を失った男 (河出文庫 ス 2-1)

8編からなる短・中編集。読む前は、シオドア・スタージョンは甘ったるい通俗的なSFを書く人だと勝手に思い込んでいたけど、もちろんそれは大間違いのこんこんちき号だった。

長編を読んでないのであれだが、たぶんストーリーテリングではなく文体やテーマ性で読ませるタイプだ。その関心はSF作家がいかにも好んで取りあげそうな根源的なところではなく個々の人間およびその間の関係性にある。偶然だと思うけど、本書に収録されている作品には3人の人間(およびそれに類するもの)の関係性にまつわる話が多かった。

『ビアンカの手』のランと、ビアンカの右手、ビアンカの左手。その名の通り『三の法則』の三位一体のエネルギー生命体。『そして私のおそれはつのる』のドン、ジョイス、ミス・フィービー。恋愛に代表されるような1対1の閉じた関係から、より開かれた人間同士の関係を模索するような作品だった。

『墓読み』は非SFの若干オカルトの趣のある作品で、読み終えた瞬間は、あっけにとられてなにか物足りない感じがしてしまったが、実はある凡庸な決まり文句が、すがすがしさにあふれた言葉だというのを教えてくれる作品で、そのすがすがしい力でオカルト趣味やノスタルジーをあっさり否定してしまう。

表題作の『海を失った男』も幻想的ですばらしい。

古道具中野商店 (新潮文庫 か 35-7)

一時期川上弘美の作品を読みふけったことがあったが、いつの間にか5年以上ごぶさたしていた。作風的には寡作という印象があるが実はかなり多産で、その間に何冊も本がでていたようだ。

中野商店というアンティークというより古道具という言葉が似合いそうな骨董屋を舞台に、そこで働く人々や訪れる人々の日常の機微を描いた長編小説だ。中心になるのはいくつかの色恋話なのだけど、陰湿さや深刻さはなく、からからとかわいた音をたてながら物語は流れてゆく。幻想的なエピソードがまったく出てこないことを含めて『センセイの鞄』と同じトーンの作品といっていいだろう。

考えてみると川上弘美を読まなくなったのは、彼女の作品に「湿度」を感じ始めたからで、それが少ない分、これは読みやすかったが、何となく物足りないというのも偽らざる感想で、唯一物語にざらつきを与えているタケオという男の存在も、結局最後にはそのざらつきを若気の至り的に否定する形で収まってゆく。読後感は決して悪くないし、好きなのだけど、魂でも襟元でもなんでもいいからもう少し揺さぶってほしかった。

気になる部分 (白水uブックス)

ニコルソン・ベーカーなどの風変わりな英米文学を訳している岸本佐知子さんのエッセイ集。翻訳している作品だけでなくエッセイも風変わりだった。

あたりまえすぎてほめ言葉にならないかもしれないけど、言葉の選択がとにかく的確。さすが翻訳家だなと思った。自虐まじりのかわいたユーモアと、翻訳作品ゆずりの奇妙な幻想。教師やオフィスの片隅でこっそり自分の世界を育んでいたら、いつの間にか大きくなりすぎて収拾がつかなくなったタイプの人とみた。なんだか他人と思えなくなってしまう。

虎よ、虎よ! (ハヤカワ文庫 SF ヘ 1-2) (ハヤカワ文庫 SF ヘ 1-2)

長らく絶版になっていたようだが、昨今のプチベスターブームのおかげで復刊された。

テレポーテーションが一般化し発見者の名をとってジョウントと呼ばれている25世紀。ジョウントによる経済状況の変化により太陽系では長い戦争がまきおこっていた。この物語の主人公ガリー・フォイルはなんの取り柄もない下級船員であり、攻撃を受けて破壊された宇宙船のただひとりの生き残りとして宇宙空間をさまよっていた。そんな彼のそばをある日同じ会社の姉妹船がとおりかかる。彼は必死の思いで救助信号をうち、相手もそれに気がついたはずだが、素っ気なく無視され、通り過ぎてしまった。その瞬間、彼は復讐を誓う。復讐を糧に彼は自らの救出に成功し、悪行の限りを尽くしながら、のしあがってゆく。

終盤までオーソドックスな冒険SF小説のように展開してゆくが、矛盾と狂気をはらんだ主人公フォイルのパーソナリティにひきこまれ、ピカレスクロマンとしてとてもおもしろく読めた。終盤、フォイルが改心するとともに、SFのSがScienceからSpeculativeに変わり、『ゴーレム100』の読者にはおなじみの、タイポグラフィーと比喩表現の花盛りになる。知覚が入り乱れて、音を見て、動きを聞いて、色を痛み、触感を味わい、匂いに触れるという描写の部分は、シュルレアリスム文学としてかなり高度な到達点だと思う。

この転調をどう感じるかによって、作品の評価は大きく変わると思う。個人的にはフォイルが悪漢でなくなってしまうと魅力半減と思いつつも、実験的なトーンも捨てがたいという、中立的な感想をいだいた。

町田康『告白』

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告白 (中公文庫 ま 35-2)

明治26年に城戸熊太郎が弟分谷弥五郎とともに一夜に幼児を含む十人の人間を殺した河内十人斬りの事件を題材にした長編小説。文庫で800ページを越える厚さでこの本そのものが武器になりそうだった。

いきなり話がそれるが、昔の方がよほど残酷な事件が多くそれは統計データからも明らかなのに、散発的に事件が起きるたびに治安が昔に比べて悪化しているようにあおる現代のマスコミはほんとうにどうかしていると思う。残虐な事件にもかかわらず当時は、熊太郎たちを英雄視する人々もいたようで、それはこの事件が河内音頭のレパートリーとして歌い継がれていることからもうかがえる。本書の中にも書かれているが、自分の生存だけで手一杯だった当時は、命に対する感覚がちがっていたのだ。

さて、この作品では、主人公熊太郎は、近代的な自我をもちながら、それを言葉として表現できずにもてあまし、直線的なものを回避して常に斜めに逃れるポストモダン野郎として描かれている。その人物造形はほんとうにリアルで、実はこれは熊太郎というモデルを借りた作者町田康の自己告白で、だから『告白』というタイトルになったのかと、信じそうになった。思いと言葉の不一致というのがこの小説の大きなテーマで、河内弁という軽妙でユーモアに富んだ言葉に、熊太郎の反省的な思弁は乗ることができずに空回りし続ける。逆に彼の思想と言語が合一するとき彼は滅亡するのだ。その滅亡の間際、彼は自分のほんとうの思いを神さんに告白しようとする。果たして彼に救いは訪れるのだろうか・・・・・・。

安部公房『密会』

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密会 (新潮文庫)

安部公房再読シリーズの第3弾は『密会』。最初に読んだ『壁』、次の『燃えつきた地図』と比べると物語の完成度ははるかに上回っている。安部公房の最高傑作のひとつといっても過言でないだろう。

ある夏の朝、身に覚えのない救急車がやってきて、妻が連れ去られてしまう。彼女の行方を追う男。探索の舞台は盗聴マイクの網が張り巡らされた巨大な迷宮のような病院だ。一瞬カフカの『城』のような無機的な官僚組織かと思うが、病院の中を支配しているのは欲望、それも決して満たされることのない欲望だ。おそらく、妻を探すという行為の中にある嫉妬混じりの欲望が病院のポリシーとたまたま合致したため、男は病院に受け入れられる。骨が溶ける奇病を患った少女、二本のペニスを持つ馬人間、不感症で残虐な女秘書、彼らのさまざまな欲望に男は翻弄される。

探索の果てに男はもはや妻を探す動機も欲望も失っていることに気がつく。と同時に彼は病院に見捨てられ、迷宮の中で朽ち果てる......。

迷子になるのが楽しくて散歩しているぼくとしては、なんといっても迷宮の描写がたまらない。通路は錯綜し、階は入り乱れ、病院と外部の街との境界も定かではない。トイレの中には天井に続くハシゴと地下室への階段が隠されている。この世界を思う存分歩き回りたくなった、ただし念のためGPSつきで。

Statistics Hacks ―統計の基本と世界を測るテクニック

オライリーの統計本ということで、初心者向けの入門書と専門書の中間くらいのトーンで、忘れかけている統計のエッセンスを楽をして思い出せるような都合のいい本を想定していたのだが、統計学を体系立てて学ぶ人向けというよりユーザとして用いる人向けに興味深い話題をちりばめたような本だった。まあ、まさにオライリーらしい本だ。

初心者向けの統計本の常としてどちらかというと確率論の範疇に入るような話題が多く含まれている。その部分になかなか興味深い話題が多くて、たとえば、iTunesが曲を再生する順番、他人の考えを操る方法、自然界の数値の先頭の数字がどのように分布しているか(1になる確率が3割程度で、2,...,9となるに従って確率は減ってゆく)などなど。一応統計についても、中心極限定理、正規分布、仮説検定、相関、カイ二乗検定、t検定、単純回帰、重回帰など初歩は一通り網羅されている。

こうあらためて確率、統計に触れてみると、そのおもしろさは数値に対するフェティシズムにあるということがわかる。早速、再学習の成果をフェティッシュを対象にしていかしてみることにしよう。

HACK#61 月ごとの散歩の距離

ぼくが散歩で歩いた距離を月ごとに集計してみたら興味深い字事実が明らかになった。全体を通しての平均は8.63kmだが、2月だけをみると9.34kmと突出して長く、8月だけをみると7.91kmと突出して短い。さてここで問題。この2月と8月の平均の差は有意なものといえるだろうか?あるいは単なる偶然だろうか?統計量は以下の通り。

回数平均距離分散
2月789.344.24
8月857.913.06

こういうときはt検定。t値を求めると4.75だった。自由度は151。これらでt分布表をひくと、95%の有意水準も、99%も容易にクリア。したがって、2月と8月の平均の差がないという帰無仮説は却下され、寒い2月にたくさん歩いて、暑い8月は歩けていないということが証明された。

ティファニーで朝食を

オードリー・ヘップバーン主演の映画は何度かみているし、原作も新潮文庫版で読んだことがあるが、村上春樹訳となれば読まないわけにはいかない。

映画は映画で大好きだけど、原作で描かれているようなホリー・ゴライトリーならば、ラストでAチームの人のとってつけたような言葉で改心したりはしないと思った。ホリー・ゴライトリーの中には何人ものホリー・ゴライトリーがいて(その中には無垢なルラメー・バーンズも含まれる)、そのなかの少なくとも一人は、彼女がつかもうとしていた幸福や、時間と労力をかけて築き上げてきた「ホリー・ゴライトリー」そのものが幻想や幻影に過ぎないということを、指摘されるまでもなく理解していたはずなのだ。それでも彼女はその幻影や幻想にしがみつかざるを得なくて、それは「いやったらしいアカ」のリアリティがもたらす業のようなものかもしれない。

ほかに短編が3編収録されていて、そのうち2編『花盛りの家』、『ダイアモンドのギター』はたぶん未読。でもなんといっても心打たれたのはラストの『クリスマスの思い出』だ。主人公の「親友」がクリスマスの朝凧揚げをしながら、「彼女の手はぐるりと輪を描く。雲や凧や草や、骨を埋めた地面を前脚で掻いているクイーニーなんかを残らず指し示すように――「人がこれまで常に目にしてきたもの、それがまさに神様のお姿だったんだよ。私はね、今日という日を目に焼きつけたまま、今ここでぽっくりと死んでしまってもかまわないよ」」とまさにスピノザみたいに悟るシーンはすばらしい。その痛々しいまでの無垢さ。無垢さは傷つけられることによって、内部に核のように凝縮していつまでも残り続ける。

いつもながら村上春樹訳は緻密でいい。

20世紀音楽 クラシックの運命

現代音楽といえば不協和音ビシバシで、メロディーというものが存在しないか甚だしく見つけにくいかで、とっつきが悪いことこの上ないが、ぼく自身は怖いもの聴きたさでたまに耳を傾けているうちに、耳になじむ曲も出てきているような状況だ。

さて、本書は現代音楽というくくりよりは幅広く、主に20世紀に書かれた(ワグナーやブラームスなど20世紀音楽を準備したと思われる19世紀末の作曲家についても触れられている)クラシック音楽について詳細な見取り図を描こうとしている本だ。あまり聴衆本位でない「わからない」音楽が生まれてきたのには必然性があり、そこには20世紀という時代がはっきり刻印されている。そこにこれらの音楽を理解するヒントがあるのだ。音楽を言葉で語ろうとすると、どうしてもわかったようなわからないようなジャーゴンをちりばめることになって、音楽そのものに届かない感じがしてしまうのだけど、本書はオペラのあらすじなんかも紹介してあって、おもしろく読めた。

我ながら近現代の曲はそれなりに聴き込んでいるつもりだったが、とりあげられる作曲家の名前の半分くらいは完全な初耳であることに愕然とした。まだまだ鉱脈は隠されているようだ。ただ、ぼくの大好きなプーランクの扱いが小さくて、サティにいたってはまったくとりあげられていないのがさみしい。

本書の末尾は実用的なディスクガイドになっているが、ぼくもここでお気に入りの20世紀音楽を紹介しておこう。選考基準は、ちょうどいいくらいの前衛性が感じられる作品。20世紀初頭のフランス音楽は好きな曲が多すぎて収集がつかないので除外してある。

  • ベルク バイオリン協奏曲
  • バルトーク 弦楽四重奏曲第1番、第2番
  • オネゲル 交響曲第2番, 第3番
  • ヒンデミット 交響曲「画家マチス」
  • メシアン 世の終わりのための四重奏曲
  • スティーヴ・ライヒ "Different Trains"
  • グレツキ 交響曲第3番