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変愛小説集2

「恋愛」じゃなく「変愛」。編訳者によるあとがきから引用すると「愛にまつわる物語でありながら、普通の恋愛小説の基準からはみ出した、グロテスクだったり極端だったり変てこだったりする小説」を集めたアンソロジーの2集目。最初は当然のように1集目から読もうと思っていたが、たまたま本屋に置いてなかったので、こちらを手に取った。サイン本だ。

まず収録されている11編をリストアップしておこう。

  • ステイシー・リクター『彼氏島』
  • アリソン・スミス『スペシャリスト』
  • ミランダ・ジュライ『妹』
  • アリソン・ベーカー『私が西部にやって来て、そこの住人になったわけ』
  • スティーヴン・ディクソン『道にて』
  • スコット・スナイダー『ヴードゥー・ハート』
  • レナード・マイケルズ『ミルドレッド』
  • ポール・グレノン『マネキン』
  • ダン・ローズ『人類学・その他100の物語』より
  • ジュリアン・スラヴィン『歯好症』
  • ジョージ・ソーンダーズ『シュワルツさんのために』

名前を聞いたことがあったのはミランダ・ジュライくらいだったけど(それもパフォーマンス・アーティストとして)くらいだったけど、それぞれ個性的な作品ばかりでおもしろかった。

様々なタイプのイケメンでやさしい男たちが暮らす孤島に流れ着いた女子学生の幸福と絶望を描いた『彼氏島』。愛している女性と結婚しようとするときまって感情が爆発してぶちこわしにしてしまう男が主人公の『ヴードゥー・ハート』は廃墟から復元した邸宅、隣の女性刑務所、失踪をくりかえした祖父の物語などをからめて、とてもよくできた短編小説に仕上がっていた。

そのほかの作品も、パートナーの変容、喪失、そもそもの不在がテーマになっていて、あまり「変」という感じはしなかった。ふたたび後書きから引用すると、「変な愛を描きつつも、愛とはそもそも変なものであることを逆に浮き彫りにし、その変さゆえにかえって純愛小説に近づいている」。さらにいうと、どんなでも「変」なものをたくさん集めることでしか「純」なものにはたどりつけないのかもしれない。もともと日本語で書かれた小説だけだと、その「変」のバラエティーが不足してしまうので、こうして「変」なものを見つけてきて翻訳してくれる岸本佐知子さんのような存在はほんとうにありがたいと、あらためて思うのであった。

夜間飛行 (光文社古典新訳文庫)

20世紀に入って電気が都市の照明に使われるようになり、闇が光で満たされるとのと前後して、飛行機が空を飛び始める。しかし、これら二つの神秘の領域、夜と空が重なる、夜間の空は、長い間未踏の領域だった。この小説は、1930年前後、まだ危険だった夜間の空を、郵便機に乗って飛んだ、いわば開拓者たちの物語だ。

学生時代に新潮文庫版を読んでから、長い年月をおいての再読。新潮文庫版は、長編第一作の『南方郵便機』が併録されていたので、印象がごっちゃになっていたが、こうして『夜間飛行』だけあらためて新訳で読み返してみると、構成のシンプルさ、力強さに驚かされる。そして何よりも、比喩が際立った文章がすばらしい(訳もいい)。一文一文を大事にもれなく読みたくなるような感じなのだ。

学生時代、この本を読んで、感想文らしきものを書いたのだけど、確か、プロフェッショナルな職業意識からうまれる責務の感情を、尊いものとして肯定的にとらえようとしていた。個人が個人として、ある種の気高さを身につけるにはどうすればいいかということの答えがそこにあるような気がしたのだ(それは連帯や忠誠という窮屈な道徳からは得られない)。視野が狭く、文章もかなり稚拙だったはずだが、その論旨は間違ってなかったといまさらながら思う。

主人公の一人、郵便機会社を経営するリヴィエールは、たった一度のミスも容赦しない、自己にも他人にも厳格な男だ。自社の航空機が嵐で遭難するという難局のさなか、彼は、(「野外音楽堂のあたりを散策するささやかな街の民」という言葉で代表される)市民的な幸福や、愛を犠牲にしてまで、自分たちを駆り立てている責務は何なのかと自問して、それは優しさの一種だけど、ほかのどんな優しさとも異なっているという。それは、「永遠」への責務、つまり自分の身体や精神が滅びても残り続ける何かを求めるということだ。

このあたり最近読んだマイケル・サンデル『これからの「正義」の話をしよう』にも通じるが、サンデルのようなコミュニタリアンなら、その「永遠」を国家や民族や宗教に関連づけようとしてしまうだろう。だが、それはいわば「過去」に対する責務だ。だが、本書でいわれている責務のベクトルの方向は真逆で、「未来」を向いている。それはチェーホフの戯曲にも共通する、「未来」の人々のためにたくさん働くことを正義とする考え方だ。ぼくは、今でもそれこそが美徳であり、「善き生」だと思っている。たぶん、昔感想文でいいたかったのもそういうことだ。

ドン・キホーテ〈前篇1〉 (岩波文庫) ドン・キホーテ〈前篇2〉 (岩波文庫) ドン・キホーテ〈前篇3〉 (岩波文庫)

ドン・キホーテを知らない人はいないだろう。ディスカウントストアの名前にもなっている、水車を巨人だと思って突撃したエピソードは誰しも子供の頃に耳にしているはずだ。ところが、実際に小説を読んでみた人はほとんどいないのではないだろうか。何しろ、文庫本で6巻もの大作だ。

さて、今回、ゆっくりちまちまと続けている「古典を読もう」というライフワークの一環で、まず『ドン・キホーテ』の前編を読んでみた。前編と書いたが、前編と後編では書かれた時期も出版された時期も違っていて、独立な物語だ。前編は正式には『機知に富んだ郷士ドン・キホーテ・デ・ラマンチャ』というタイトルがついている。

まず、最初に書いておかなくてはいけないのは、ふつうにおもしろくてすいすい読めたということ。ドン・キホーテ、サンチョ・パンサ主従のとんちんかんなやりとりは抱腹絶倒だし、挿話的に語られる主に恋愛をテーマとしたサブストーリーはよくできていて思わず引き込まれる。何度も書いているが、古典がなぜ古典かと一番の理由はおもしろいからなのだ。

だが、単におもしろいだけなら、ほかにもエンターテインメントとしておもしろい本はたくさんある。今なぜドン・キホーテなのかという問に対して、自分なりに答えてみたいと思う。

その前にセルバンテスが『ドン・キホーテ』を書いたスタンス、立場について書いておかなくてはいけない。『ドン・キホーテ』はかいつまむと、おとなしい郷士が騎士道物語の読み過ぎで頭がいかれて、みずから遍歴の騎士となって旅立つというストーリーだ。セルバンテスの時代にはもう騎士などというものは実在していなくて物語の中の存在だった。とはいえ、騎士は決して古くさいものではなく、個人主義を体現する存在でもあったし、騎士道ものは当時広く読まれていたようだ。セルバンテス自身も熱心な愛読者だったのは間違いない。同時にセルバンテスはそのジャンルの一部の作品に反感を抱いていたようだ。ジャンルの成熟とともに、キッチュで奇をてらっただけの作品が登場し、それがかえって人気を博してしまうことが許せなかったのだろう。それで、彼はこのジャンルをパロディーにすることを思いついて、それが大成功をおさめた。今読んでも十分面白いが、当時騎士道物語を日常的に読んでいた人々にとって、そのおもしろさは格別だった。この『ドン・キホーテ』の成功がおそらくは衰えつつあった騎士道物語に引導を渡す役割を果たしたのだ。

余談だが、騎士道物語というのは、内容的にもポジション的にも、今でいうライトノベルのようなものだと思う。

さて、本題に戻って、今『ドン・キホーテ』を読む意味だが、ひとつには現代においても騎士道物語は実は廃れていない。レイモンド・チャンドラーやその後継者が書くハードボイルドの探偵ものは、まさに現代の騎士道物語のような気がする。『ドン・キホーテ』はハードボイルド小説に対するパロディー、批判としても読めるということだ。

またドン・キホーテをテーマにした作品は数限りなく存在する。ポール・オースターの『ガラスの街』なんかまさにそうだし、演劇の分野でも遊園地再生事業団『モーターサイクル・ドン・キホーテ』というのがあった。今から思えば、これらの作品のコアな部分は『ドン・キホーテ』を読んでないと理解できなかったと思う。そして、そういう作品の読みが、新たな『ドン・キホーテ』の読みを誘う。たとえば、ドン・キホーテは実は狂っていなくて、自ら騎士を演じて、物語に書かれるために、あえて、とんちんかんなことを繰り返したのではないか、とか。

と、いろいろ書いてみたが、いったんこのあたりで筆をとめておくことにする。このあとしばらくあけてから、後編を読むつもりなので、読み終わったら、まとめて続きを書くことにする。

前編は「おそらく誰かほかの者がよりめでたく歌うだろう」という意味のイタリア語の引用でしめくくられる。おそらくこの時点ではセルバンテスに続編を書く明確な意志はなかったのだろう。後編が楽しみだ。

ジェイクをさがして (ハヤカワ文庫SF)

13編の短編小説と1編のコミック(ミエヴィルは原作のみ)からなる作品集。

最初の数編はグロテスクなのだけが特長のホラーないしオカルトとしか思えなくて、ああ、これは間違えた本を買ってしまった、と後悔したが、読み進めるうちにだんだん楽しみ方がわかってきた。どちらかといえば目をそらしたくなるような気持ちの悪い特異点のようなもの。そこにあえて注目し、決して目を離さない。たぐいまれな表現力だけを武器に、起承転結的な説明をつけようとする力にあらがって、どこまでも最初の気持ち悪さに忠実に物語が展開する。その展開の突拍子もなさと裏腹に、具体的に挙げられるロンドンの地名。たぶん、ロンドンを知っている人にとってはそれぞれ特別な情感を呼び起こす地名なのだろう。東京に住む人にとっての、六本木とか新小岩と同じように。

一番の力作は、やはり一番長い『鏡」という作品だろう。ボルヘスの抽象的な断章をベースに具体的な終末のイメージを作りあげている。視点となるキャラクターが二人いて交互に語ったりするところや、鏡の向こう側の静謐な世界の描写が、どことなく村上春樹の『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』を思わせて、とてもいい。

これからの「正義」の話をしよう――いまを生き延びるための哲学

あなたは路面電車の運転士で、ブレーキがきかないことに気づく。前方には5人の作業員。待避線に入れば5人の命は助かる。だが、そちらにも作業員が1人いる。あなたはまっすぐ進むのと待避線に入るとのどちらを選択すべきか。あるいは、あなたは同じ事故を目撃している傍観者で、橋の上にいる。今度は待避線はないが、目の前に太った男がいる。彼を橋から突き落とせば1人の犠牲ですむ。その行為は正当化されるのだろうか?

正義、すなわち、われわれは何をなすべきかということを考えるには、やはりこんなふうに実例をベースに考えないと結局空理空論で終わってしまう気がする。本書にはたくさんの実例が収められている。日本の状況に即したものばかりではないが、十分理解できるものばかりだった。おかげで、自分自身の正義の基準がいかにあいまいかということに気がつかされた。

まず、今比較的受け入れられている正義の基準となる考え方がいくつか紹介される。ひとつは功利主義。「最大多数の最大幸福」というやつだ。ある意味多数派絶対主義だし、原理的に解釈すれば、冒頭に挙げた例で、太った男を橋から突き落とす行為は正当化される。そして、リバタリアニズム(自由至上主義)。自分(財産を含む)は自分のもので、その権利(自己所有権)は不可侵であるという考え方。国家は防犯、国防など最小限の機能にしぼるべきで、再配分などもってのほか。恵まれない人にお金を配分する必要は認めるが、自らの意志で行うべきだという。また、自分の身体をどのように使おうとも自由なので、生きている間に腎臓を二つとも臓器売買することさえ認められる。

原理的につきつめれば功利主義もリバタリアニズムも現代の一般人の感覚からすると受け入れがたくなるということが示された後、続いて、現代の道徳的立場のひとつの雄リベラリズムを基礎づけるカントとロールズの正義に関する考え方が紹介される。

カントは、自由を道徳の基礎として位置づけた。ただしカントが呼ぶ「自由」とは、理性が欲望や快・不快などの感情からの自由、つまり理性が自律的に判断できている状態をさす。誰にでも適用可能な普遍的なものでなくてはいけないし、人間性そのものを目的としなければいけないという縛りはあるものの、個人は「自由」に自らの道徳法則を選び、それに厳密に従わなくてはいけないとカントはいう。

ロールズは、さらに「無知のベール」という概念を導入する。各人が、自らの社会的地位や能力を知らないと仮定するのだ(SF的な表現を使わせてもらうと、すべての平行宇宙における自分に配慮するということ)。その場合選ばれる正義の原則は成果の分配に最大限配慮した平等主義的なものになる。

さて、ここまで紹介した正義の基準は何が善かという価値の内容に踏み込まず、中立的な立場からよりどころを見つけようとするものだった。しかし、サンデル教授のみるところによればそれは成功しないという。どうしても、名誉、徳といった概念と正義を切り離すことはできないというのだ。そこで、紹介されるのが古代ギリシアのアリストテレスの考え方。目的論、すなわちある存在の目的がわかれば、自ずと正義は定まるという考え方だ。たとえば、笛があって、それを誰に与えればいいかという問に対して、アリストテレスは笛を一番上手に吹ける人だと答える。都市国家の目的は市民を善良で公正な者とすることだ。その観点から都市国家における正義は定まるという。

そして、ようやくサンデル教授自身の道徳に関する考え方が紹介される。流れからわかるように教授は、近代の哲学者が退けたアリストテレス的な目的論をとる。美徳や名誉こそが人間の目的であり、そこから正義が定まるというのだ。ではその美徳や名誉はどういうものなのか。それを語るのに、マッキンタイアという哲学者の、人間は自らの物語を生きる存在であるという考え方を紹介する。この物語は自分だけで作りあげられるものではなく、過去から脈々と続くコミュニティーの物語の一部である。いわば、この物語を完成させることが人間の目的だ。そして、これまでの 1.普遍的で合意を必要としない自然的責務、2.個別的で合意を必要とする自発的責務、という2種類の道徳的責任に加えて、美徳や名誉が関わるところの、 3. 個別的だが合意を必要としない連帯の責務、というものが存在するといい、いくつか例をひきながら、家族や同胞に対する特別扱いや愛国心をこの3番目のカテゴリーの正義としてあげている。

この部分は、本書のほかの部分の的確な語りに比べると、もったいぶっていて、論拠が弱く感じた。まず、ステートとネーションをごっちゃにしているようで、ステートには自国民保護という明確な目的があるが、それはネーションの道徳とは別の問題だ。また、人が属するコミュニティーは一つではないし、複雑にからみあっている。いいかえれば、ひとりの人間は複数の物語に違う役柄で登場する。コミュニティーと個人のかかわりも自明ではなく、誰が(どの程度)コミュニティーのメンバーなのかというメンバーシップ問題が常に発生する。またその関係は、実は互恵的な交換の原理が基盤となっているもので、暗黙であってもなにがしかの合意がなくてはいけないのではないか。親に虐待された子供が、親をかばうのはむしろ悪だと思う。さらに、連帯の責務とここで呼んでいるものの範囲を拡大して自然的な責務というか人権という概念が生まれたのであって、わざわざ別に掲げるようなものではないような気がする。逆に自然的な責務を部分的に(実際ほとんどの場合そうすることになる)適用すれば連帯の責務になるのだ。

5人の見知らぬ人の命を見捨てて自分の家族1人の命を助けたとしても、全然悪いことだとは思わない。でも、それを正義の名で呼ぶ必要はないんじゃないだろうか。

最後に、善良な生活とは何かという論議なしには公正な社会はありえないという主張でしめくくられる。本書では紹介されなかったが、リベラリズムの理論的支柱の一人ハーバーマスに通じるような結論だ。この部分はぼくも共感できる。

サンデル教授の道徳的立場に名前をつけるとコミュニタリアニズム(共同体主義)ということになると思う。日本でいうといわゆる保守派の主張に重なる部分も多いけれど、こうして論理的に語ってもらえば、結構納得できることもある。少なくとも、どこに同意してどこに同意しないかというということが指摘できるし、妥協点も見いだせそうな気がする。

翻って自分の道徳的立場を見直してみると、カントが一番近いかな。ただし、原理的にはリバタリアンで、功利主義的に、人類というコミュニティーの伝統としての人権概念を受け入れるという立場。そして、個人的には善良な生活を目指していて、ある程度そこには普遍性があると思っている。

1Q84 BOOK 3

こちらでは奥歯にもののはさまった書き方をしているが、正直 BOOK 2 はあまり楽しめなかった。BOOK 1 では思う存分羽ばたいていた想像力の翼が、村上春樹自身がリーダーの預言に支配されたかのように、普遍化することの不可能な、青豆と天吾二人の特殊な愛の物語に縮まってしまったように思えたからだ。とはいえ、「BOOK 3はたぶんない」と書いたのにBOOK 3が発売されてしまった負け惜しみでいうのではなく、物語としては、BOOK 2で十分完結していたと思う。だから、これはBOOK 2 でバッドエンディングになってしまったところからやり直したリプレイといえるかもしれない。

BOOK 3は読んでいてとても楽しかった。それには、1Q84の世界にまぎれこんでしまった3人目の登場人物牛河のおかげもあったかもしれない。彼の存在が悪しき予定調和を乱してくれたのだ。姿なきNHKの集金人などの一見本筋に無関係なエピソードもすばらしい。そして紛うことのない真のエンディング......。結論として、BOOK 2同様普遍化できない二人の特殊な愛の物語に違いないんだけど、このエンディングは好きだ。銀色のメルセデス・クーペ。

今度こそ、断言しよう。BOOK 4はない。(BOOK 0 はあるかもしれない)。

木曜日だった男 一つの悪夢 (光文社古典新訳文庫)

無政府主義者憎しの一念でにわか警官に採用されたサイムは、偶然無政府主義者たちの幹部会議にもぐりこむことに成功する。議長である白髪の巨漢「日曜日」を筆頭とする7人のメンバーで構成され、サイムは「木曜日」と呼ばれることになる。そして、追いつ追われつの奇妙な追跡劇がはじまる......。

とても観念的な冒険小説。あるいは文化的、宗教的に保守主義者だったチェスタトンが寓話の形で形で書いた自己啓発書といったほうがいいかもしれない。物語の冒頭、いわゆるわら人形論法的に無政府主義の反対をいくことだけで自分の信念を強化していた主人公サイムが、「日曜日」というまるで神のような存在に翻弄されることで苦悩を味わい、そのうすっべらな主義に「内実」を与えられる。そして、ラストで彼の分身的な存在の無政府主義者の男グレゴリーと和解する。流れは典型的なビルドゥングスロマンだ。まあ、意地の悪い見方をすれば、それは成長というより、もともとポケットのなかに入っていた苦悩をアリバイとして持ち出しただけのようにも思えてしまうのだが。

杖をついて半ば身体の自由のきかない老人に町中おいかけまわされたりとか、象を追いかけたりとか、エピソードがとにかく荒唐無稽でかつさまざまな謎めいたシンボルに満ちていておもしろかった。

現代写真論

本書は、コンテンポラリーアートとしての写真を、×写真家を羅列するのではなく、×様式やテーマで分類するのでもなく、×歴史を通して語るのでもなく、○写真家のモチーフや製作方法で分類し、その世界の広がりを概観しようとした本だ。

とりあげられるモチーフは8つで、それぞれ章を構成している。

  1. これがアートであるならば
  2. 昔々
  3. デットパン
  4. 重要なものとつまらないもの
  5. ライフ
  6. 歴史の瞬間
  7. 再生と再編
  8. フィジカル、マテリアル

各章ではあわせて243点もの作品がカラーで収録されている(それがとにかく素晴らしい!)。そして、写真をみただけではわからないモチーフや製作方法が本文で解説されている。ただ訳文はそんなにこなれてなくて、必ずしも読みやすいとはいえなかった。英語で読んだ方が頭に入ったかもしれない。

最近スランプ気味の、カメラをぶらさげてただ歩く人としては、写真というものの可能性に目を見ひらかせてくれて、かなり参考になった気がする。

星新一〈上〉―一〇〇一話をつくった人 (新潮文庫) 星新一〈下〉―一〇〇一話をつくった人 (新潮文庫)

読む本が、子供の本から大人の本へと移行する時期、ぼくも星新一の作品を手に取った。ショートショートの作品集はほとんど読んだし、それだけで飽き足らなくて、父親や祖父を描いた歴史物も読んだ。そんなに熱烈なファンだったのに、いつの頃からか急激に興味をなくして、本屋の棚も素通りするようになってしまった。まあ、新しい作品集が出なくなったということもあるのだけど。そして、しばらくして訃報をきいたときも、ちょっと早いなとは思ったけど、まあそんなものかという感じだった。

本書は、小説家星新一のはじめての伝記だ。作品からは想像できない彼の人生にスポットライトがあてられている。

本名は星親一。1926年、星製薬の創業者星一の長男として生まれ、当時の一級の教育をさずかりながら級友たちとすごした少年時代。戦争、敗戦、そして父の突然の死。親一は父の事業を引き継ぎ社長に就任する。しかし、事業はもう手のつけられない借金まみれだった。事業の精算を外部からきた事業家(大谷米太郎、ホテルニューオータニの創業者)にまかせ数年で社長の座から退く。数年の雌伏のときを経て、当時勃興しようとしていた日本SF小説界に、彗星のように姿を現し、コンスタントに、奇抜で洒脱なショートショート作品を発表していった。そのあとはだいたいぼくらの知る通りの大活躍だ。

だが、本人には人知れぬ悩みがあったらしい。文学賞と無縁で、文壇における評価が低かったこと、大人向けの小説を書いているつもりが、読者層がどんどん低年齢化して、だんだん子供向けの作家としてみなされるようになったこと、などなど。年齢からくる創作意欲の衰えを感じはじめた頃から、ショートショート1000編を書くということを目標にしたが、それはギネスブック的な記録に過ぎず、文学的評価を高めるのとはまったく別のことだった。

晩年は、過去の作品の寿命を長くするため、古い使われなくなったいいまわしを改訂する作業に取り組んでいたのとことだ。1994年にガンの手術をしたあと、入退院を繰り返し、1996年4月に意識不明になり、そのまま1997年の年末に亡くなった。

『でも、心配することはないのかもしれない。たとえ、肉体が滅びても、海はふたたびいのちを育む。ほんとうの「生命」は残された人々の心に宿り、永遠に生き続ける。たとえ星新一は死んでも、新たな目が未来を見つめる。』(本書より)

読んでたら、無性にまた彼の作品が読みたくなってきた。今なら、ストーリーを追いかけるだけでなく、文章や構成を味わいながら読むことができるだろう。確かに心配することはない。こんなぼくのような舞い戻ってきた古い読者だけでなく、今でも新たな若い世代の読者を獲得し続けているし、世界各国語に翻訳され続けているのだ。

僕たちは歩かない (角川文庫)

そんなこといわずに歩こうよ、と最初思ったが、歩かないのにはそれなりのわけがあったのだ。

1日あたりの時間が2時間多い26時間制の東京。フランス料理のシェフになるという目標を共有し、それぞれの方法でそこにやってきた「僕たち」は、増えた2時間を使って修行に励む。しかし仲間の一人が事故で死んでしまい、彼女に会うため、「僕たち」はある規則に従いながら冥界を目指す。その規則とは、途中地面に足をついてはいけないこと、つまり歩いてはいけない......。

ほかの本のしおりに使えそうなくらい薄い本。でも、星野勝之という人の素敵な挿絵はついているし、古川日出男の文章のどこにもすきはなく凝縮されている。文章のリズムにのれば26時間制の東京にトリップできて、余分な2時間でちょうどこの本が読める。

リックの量子世界 (創元SF文庫)

SFのジャンルの中でも並行世界ものに特に目がない。タイムトラベルものだとどうしてもいった先の時代の描写とかタイムパラドックスの回避方法なんかに紙幅を費やしてしまうが、並行世界ものは純粋にアイディアを展開できるし、物語の自由度も高い気がする。2009年の終わりから2010年のはじめに書けては、東浩紀『クォンタム・ファミリーズ』、本書、と並行世界ものが立て続けに出版され、並行世界ファンにとってはうれしいシーズンだった。しかも、『クォンタム・ファミリーズ』三島賞受賞の報が、本書を読んでいる間に届くとは。

さて、本書の主人公リックは美しい妻、息子とともに幸福に暮らしていたが、ある日不吉な予感におそわれ自宅に戻ろうとする途中、妻の自動車が事故に遭い亡くなる瞬間に立ち会う。その衝撃で彼の心は別の世界に飛ばされる。そこは並行世界の中の彼の分身リチャードの身体の中だった。ひとつの身体に二つの心、最初パニックに陥って、精神病院に入院させられたりもするが、分身とはいえ気質も趣味志向も違う彼らが、だんだんお互いを理解しあうプロセスがバディームービーのようで面白い。この世界では妻は健在なのだが(子供はいない)、どうやら不倫をしていることに、リックの方が気がつく。彼らは協力して事態を打開しようとするが......。

催眠術による意識の時間退行なんかが出てきて、ストーリー展開や道具立てはとてもP.K.ディック的なんだけど、ああいうおどろどろしい主観的な内面描写は避けて、こちらは可能な限り客観的に外部から描こうとしている。それは物語を徒な混沌に落とし込まないという点で長所だけど、迫力に欠けるという点では欠点でもありうる。まあ、自分の土俵で勝負しているだけで、これで正解なのだろう。

面白いのは、最後の方で示される、人間は世界の運命を変えることはできないけど、ほかの世界に移動できるというという事実というか原理。ここでは並行世界間を移動できる特殊な能力のためにそうなっているという話だけど、でも実は誰でもそういう能力をもっていて、それぞれ自分にとって適切な世界(あるいは不適切な世界)を都度選択していると考えたら、それは決定論と自由意志のテーゼ/アンチテーゼを解決するひとつの方法ということになる。

もうひとつ、ラストで、精神科医という、ほとんどどんな現象でも狂気のしわざで説明できる力を持った人に対し、自分の存在を証明する方法が、ほんとうにエレガントだった。このエレガントさのためにこの小説が書かれたといっても過言ではない。あらゆる美の中で最高の美を賛辞する言葉を最後に付け加えておこう。

数学的に美しい。

トランスクリティーク――カントとマルクス (岩波現代文庫)

高くて分厚い単行本を手にとってため息をついてまた戻したことがあったが、文庫化されたのでようやく入手。

一般的に、カント→ヘーゲル→マルクスという矢印の右側が左側を批判的に乗り越えて新たな哲学体系をたちあげたということになっているが、本書ではその真ん中に位置するヘーゲルの価値を切り下げて、カントとマルクスの間をダイレクトにつなぐ。つまり、ヘーゲルはカントを乗り越えられなかったし、マルクスにおいて、ヘーゲルによって否定されたものが再び復活していると読む。両者に共通するのは、二つの相反するものの間に立ってどちらか一方に安住することなく絶えず視点を移し続ける態度だ。カントは経験論と合理論の間でそうしたし、マルクスも一般的な理解と異なり(マルクスはマルクス主義者ではなかった!)何か体系を作りあげることなく常に既存の体系の批判者として振る舞っていたとされる。

ヘーゲルは、18世紀前半に完成したネーションと国家(と資本)の一体化という現象を歴史の終焉としてみたが、マルクスは、歴史は下部構造の経済が上部構造のネーションや国家を規定するとして、資本を打倒すればネーションと国家は揚棄できると考えた。それに対し、本書では、基本的に資本、ネーション、国家は揚棄すべきものというマルクスの考えをそのまま引き継ぎながら、これらは資本=ネーション=国家とでもいうべき相互補完的な三位一体の存在であって、それぞれ別の交換原理に基づいた自律的な存在なのだという。資本はいうまでもなく市場における貨幣的交換、ネーションは農業共同体内の互酬的な交換、国家は収奪と再分配だ。近代になってこの中で資本がほかを圧倒したといえるが、再生産については家族等ネーションを構成する枠組みに頼らざるを得ず、国家も他の国家に対して主権者として振る舞わざるを得ないため存続し続ける。

といったところが、理論書としての本書の骨格。

分量としては圧倒的に少ないが、本書には、実践編とでもいうべき、実際、資本=ネーション=国家を揚棄するにはどうすればいいかということも書いてある。社会民主主義はこのトライアングルを強化するだけで解決にならない。筆者がいうには、交換にはもう一種類アソシエーションがあるという。アソシエーションは、資本=ネーション=国家のいいところ取りをしたものだ。つまり生産=消費協同組合を組織し、そこに個々人が自発的に参加する一方、資本制の企業に対しては労働力の提供をやめ不買運動を繰り広げる。組合内部には既存の貨幣と違って増殖しない代替貨幣を流通させ、執行部は選挙にくじ引きを組み合わせて選出するそうだ。

以下はぼくの感想。

代表者を選挙だけでなくくじ引きを組み合わせて選ぶというのは、権力の腐敗や固定化を防ぐことができるとてもいい方法のような気がする。アソシエーションの勃興を待たなくても、今の制度の中に取り入れたら、かなり有効だと思う。

一方、アソシエーションの経済的なリアリティについては、通常の貨幣を用いる限り資本制になってしまうという認識は正しいが(私見だと貨幣は負にならないという性質をもつかぎりにおいて増殖する)、代替通貨についてはLETSが不十分な例としてあげられただけで、詳細はかかれていない。だがもしうまい代替通貨のしくみができたとしても、それが通常の貨幣より魅力的でなければ、みんなそちらに移行しないだろうし、逆に魅力的だとすると、通常の貨幣のように増殖してしまうのではないだろうか。また、通常の企業でなく生産=消費協同組合に参加する理由も、どうしても倫理的なものが要請されてしまう。そうすると、メンバーはごく少数にとどまることになって、トライアングルを揚棄するところまでいかないだろう。

そもそも、このトライアングルのどういう点が悪かということが、詳細に検討されていない。いや、常識的に考えれば、戦争、格差、差別、環境破壊、恐慌等、いろいろ問題があるのはわかっているが、そういうものがどの程度までこのトライアングルの責任なのか、アソシエーションならほんとうに問題は解決するのか、ということは詳細に検討が必要だと思う。この本を書いた前後、筆者はNAM(New Associationist Movement)というアソシエーションの実践の活動に取り組むことになるが、それは失敗に終わっているのだ。

というように、過去や現状を分析した理論書としては深い洞察にあふれた本だけど、未来に向けた実践の手引きとしては不十分だった。まあ、考えてみればマルクスの著作全般もそうだったわけだ。著者には、実践は次の世代にまかせて、理論をどんどん突き詰めてほしい。というか、その願望はすでにかなえられて、『世界史の構造』という本が近刊予定らしい。

高慢と偏見とゾンビ(二見文庫 ザ・ミステリ・コレクション)

オリジナルの文章、ストーリー展開はほとんどそのままに(ただし一部のあまり主要でない登場人物たちはかなりひどい最期を遂げる)、1割だけゾンビとの戦闘シーンやちょっぴりお下劣なギャグを挿入した、『高慢と偏見』ゾンビふりかけバージョン。ゾンビ部分は、けっこうえぐい味。最初のうちこのゾンビ味が新鮮だが、だんだんパターンがみえてきてしまった。もう少し工夫してもよかったんじゃないかな。

こういうスタイルのものが作品として成立して、しかも売れるということを証明したことが、この作品の最大の価値。あと、個人的には、オリジナルの『高慢と偏見』を読むきっかけを与えてくれた本だった。そのことに感謝。

高慢と偏見〈上〉 (岩波文庫) 高慢と偏見〈下〉 (岩波文庫)

『高慢と偏見とゾンビ』というパロディーのマッシュアップ作品が刊行されたらしい。「これください」「ゾンビ入りにしますか、ゾンビ抜きにしますか?」「えーと」「最初ゾンビ抜きを試してからの方が、よりゾンビの味が楽しめると思いますよ」「じゃ、抜きで」

ということで、読み始めたのだが、そうでもなければ、幾多の読書経験をほこるこの俺様が(高慢)、いまさらこんなハーレクインに毛がはえたような(偏見)小説読んでもしょうがないだろうと、文字通りの高慢と偏見を発揮して、手に取ることはなかっただろう。ところが読み始めたら一気に夢中になってしまった。実は、せっかくなので英語で読もうと原書を手に取ったのだが、物語がおもしろくなるにつれ、婉曲な表現をひとつひとつたどっていくのが、だんだんもどかしくなってきて、10章で断念して、ブックオフで和訳を手に入れたのだ。

田舎の地主一家の五人姉妹の次女エリザベスと、資産家で名家の若主人ダーシーの最初の出会いから、互いの偏見と高慢を乗り越えて、結婚するまでを描いた作品。なんていうことのないストーリーなのだが、この二人の恋の行方に目が離せなくなって、熱中して一気に読んでしまった。人物描写の力だろうか。

物語もさることながら、当時のイギリス中上流階級の社会的状況をうかがい知ることができて興味深かった。女子は相続からはずされることも多く、少しでも資産のある夫をみつけることが幸福の条件だった。ある程度の階級以上の男子もまた、商業がいやしいものとされていたため、それ以外の手段で収入を得ることが求められ、それがない場合は財産をもつ娘との結婚が最後のチャンスにもなったりしたようだ。結婚は、今よりもずっと一生を左右する重大な問題だったのだ。女子は、楽器、歌、ダンス等社交の場で少しでも目立つための努力を惜しまなかった。家柄も重視され、家族の中に非常識なものがいたり、本書の中であったように兄弟姉妹が駆け落ちしたりするのも、結婚の障害になる。まあ、現代でもそういうのはまだ残っているけど。

エリザベスがダーシーの気持ちをとらえたのは、その美貌もあるかもしれないけど、彼女のどんなものにも物怖じすることのない機知だったような気がする。その機知は上に書いたような結婚をめぐる社会状況なんかにも負けてない。キャサリン夫人にやりこめるシーンはほんとうに痛快だった。それでも、彼女がこの社会で幸福にはなるには結婚が必要で、その価値観から外に出ることはできないというか、外に出たら、単なる空想になってしまう。そのことを彼女自身も重々認識していた。ダーシーという彼女の機知を受けとめ、彼女が尊敬できるような人物が必要だったのだ。

このエリザベスは、まず間違いなくジェーン・オースティン自身を投影していると思うんだけど、彼女自身は一生結婚しなかった。彼女にはダーシーはあらわれなかったんだなと思うと、ちょっとさみしい。

色々書いたが、こういう面白い作品に出会うことができたのも、ゾンビのおかげだ。ありがとう、ゾンビ。

跳躍者の時空 (奇想コレクション)

本書の存在を知ったのと、フリッツ・ライバーの名前を知ったのは、完全に同時。だから、受け売りで書くが、フリッツ・ライバー(1910-1992)はSF、ファンタジー、ホラーなど幅広い分野で活躍したアメリカの小説家だ。ライフワーク的な『ファファード&グレイ・マウザー』シリーズが有名らしい。そのほか時代に先行するような長編小説をいくつも書いているし、中・短編も200以上ある。本書は、その中から10編をよりすぐった短編集だ。

うち5編はガミッチという猫を主人公にした幻想的な作品群。猫を擬人化するんでもなく、かといってつきはなして完全に第三者的に書くんでもなく、奇妙に視点を移動させながら、猫の目からみた世界を描き出そうとしている。

『『ハムレット』の四人の亡霊』は古典的だけどとてもよくできたゴーストストーリー、収録作の中では唯一ウェルメイド。『骨のダイスを転がそう』は細部は独特な味わいを感じるけど物語の骨格としては落語にありそう。『冬の蠅』は、食後の家族団欒のひとときを、ユング心理学的なさまざま心の中の分身が実体化して、影のようにいろどる、シュールな物語。『王侯の死』は着想に目新しさはないけどストーリーテリングが光る。

最後の『春の祝祭』は、政府の施設に閉じこもって研究を続ける数学オタクの青年のもとに、不可解な落雷とともに、魅力的な若い女性がたずねてきて、7という数に関する知的なゲームを繰り広げ、そして、むふふのふ、という、童貞中学生の妄想のようでありながら、数秘術や錬金術などにまつわる中世の幻想譚を現代に蘇らせたような作品だった。

と、こんな感じで、多種多様。幻想の突飛さも物語の構成力も、レベルが高い。もっと読まれていい小説家だと思う。

なお、翻訳は、中村融、深町真理子、この間惜しくも他界された浅倉久志の3名。

ねにもつタイプ (ちくま文庫)

翻訳家岸本佐知子さんの奇想天外なエッセイ集。

腹をかかえたりあっけにとられたりするうちに、妙な親近感や懐かしさのようなものが芽生えてきた。なんだろうと思ったら、子供の頃に感じていた感覚なのだった。子供の頃は目にするものすべてが不思議でとんちんかんなことばかり考えていたけど、そこには子供なりの筋の通った論理があり、いつの間にかそれが大人の論理に移行しただけなのだ。ぼくなんかはもうすっかりその頃考えていたことを忘れていたけど、岸本さんはエピソードのひとつひとつを事細かに覚えていて、かつその頃の視点を今に蘇らせてまわりの世界を眺めることができる。とても希有な能力で、うらやましい。

身の回りのあちこちに口をあけていた「地獄」、コアラの鼻の材質、トイレットペーパーとの会話、カルピスを飲むと舌の奥にできる「モロモロ」。みんな一度は経験したり考えたことがある気がする。

そしてべぼや橋。本編ではネットでは自分のサイトしかヒットしないと書いてあったが(あとがきでは3件ヒットに増加)、今 Google で検索したら661件になっていた。

Blind Willow, Sleeping Woman

われながら、村上春樹を英語で読もうなんて、かなり倒錯していると思う。もともと英語の勉強6割、読書の楽しみ4割くらいのつもりで読み始めたのだ。

まず、英語の勉強についていえば、かなり効果はあったんじゃないか。英語圏の小説だと、言葉以前に習慣の違いで理解できないことがあったりするが、この本に関してはそれがないことが保証されている。しかも、どうしてもわからない表現にぶちあたったときでも、本屋に行けばいつでも正解を盗み読むことができるのだ。

読書の楽しみについていうと、日本語で読むよりより深く村上春樹の世界を堪能できた気がする。ひとつには、読むスピードがゆっくりになるので、ひとつひとつの表現をより深く味わうことができたといえるし、さらには、会話でも、地の文でも、日本語で読んでいると、浮いてしまっている表現が、英語だと見事にしっくりはまっているのだ。実は英語で書かれたこの本が原典で、村上春樹はとても優秀な日本語への翻訳者のような気がしてくる。

その楽しさがあったからこそ、最後まで読み通すことができたのかもしれない。ゲームブックなどをのぞけば英語のペーパーバッグを読み通したのは、はじめての快挙だった。

村上春樹自身の選で英語版独自に編まれた24編からなる短編集だ(同じ内容の日本語版が先日発売された)。せっかくなので一編ずつコメントしておこう。

"Bilind Willow, Sleeping Woman"。耳が悪い従弟のつきそいでバスで丘の上の病院に行く。よみがえる記憶。その内容が断片的に、暗示的に語られる......。たぶん、『ノルウェーの森』と同じシチュエーションで書かれたアナザーストーリーなのでは。

"Birthday Girl"。レストランでバイトをする女の子が、20歳の誕生日の夜に、とびきりにマジカルなプレゼントをもらう......。カポーティが書きそうな話だ。

"New York Mining Disaster"。短いのに複雑な構成の物語だ。台風がくると動物園に行く友人、たて続く同年代の知り合いの死と葬儀、パーディーで紹介された謎の美女、そして、最後に唐突に挿入される「ニューヨーク炭坑の悲劇」のシーン。タイトルはビージーズの曲かららしい。

"Aeroplane: Or, How He Talked to Himself as If Reciting Poetry"。抑圧された言葉。何年もの時を経てほかの人の口からそれは飛び立つ、ヒコーキの形で。

"The Mirror"。モダンホラー。こういうのも村上春樹はふつうにうまい。

"A Folklore for My Generation: A Prehistory of Late-Stage Capitalism"。古い保守的な価値観から新しい開放的な価値観への移行期特有の苦い悲劇。

"Hunting Knife"。車椅子の男と月明かりの下きらめくナイフ。これぞ短編小説という文句なしのマスターピース。

"A Perfect Day of Kangaroos""Dabchick"。短編というより掌編といったほうがいいようなユーモラスな作品が2つ続く。

"Man-Eating Cats。閉ざされた異国の地で忽然と消え失せる恋人。長編『スプートニクの恋人』の前身。

"A 'Poor Aunt' Story"。'Poor Aunt' という言葉の感触をてがかりにどこまで飛躍できるかというオリンピック競技みたいな作品。

"Nausea 1979"。原因不明の吐き気を引き起こす謎の電話。世界の通奏低音としての無邪気な悪意。

"The Seventh Man"。何度読んでも泣ける話。「それは波だったのです」。

"The Year of Spaghetti"。スパゲティーをゆでることが文学の題材になりうることを示したのは、村上春樹の功績の一つだ

"Tony Takitani"。何段階かのステップをへて最後の最後に「ほんとうに」孤独になるトニー滝谷。ぼくは、逆に孤独で「すらない」状態の不幸について考えてみたくなる。

"The Rise and Fall of Sharpie Cakes。露骨に日本の文壇と、そこでの村上春樹作品の受容のされ方を皮肉った作品。

"The Ice Man"。村上春樹作品ではたいていの場合、生まれ育った共同体から外に出て新たな結びつきを得ることは善で幸福を得るのだけど、珍しくそうでない。

"Crabs"。う〜ん、これを読むとしばらくカニは食えない。

"Firefly"。『ノルウェイの森』の前身となった作品。

"Chance Traveler"。心温まる偶然を描いた作品。その偶然のだしに使われてしまったような女性を、物語的に救ったり、逆に見捨てたりもしないで、暖かな日射しのように寄せる関心で終わらせるのがいい。

"Hanalei Bay"。警官がいう。自然にはあちら側もこちら側もない。原因も怒りも憎しみもない。

"Where I'm Likely to Find It"。ドアのような、カサのような、ドーナツのような何か。

"The Kidney-Shaped Stone That Moves Every Day"。パーティで出会ったキリエという謎の女性との恋愛と、腎臓の形の石をめぐる不思議な物語が、シンクロしながら進んでいく。

"A Shinagawa Monkey"。猿に人生の真実を言い当てられるというのはどんな気持ちなんだろう。

あ・じゃ・ぱん!(上) (角川文庫) あ・じゃ・ぱ!(下) (角川文庫)

アテンション・プリーズ。太平洋戦争敗北後、日本は長大な壁で東西に分断され、西は難波商人マインド全開の資本主義国家、東は一党独裁の共産主義国家になっていた。なぜか明示はされないけどたぶん1994年、昭和天皇の崩御に伴って、壁は音をたてるように崩れてゆく。その模様を伝えるために日本にやってきた、日本人より日本人らしいアフリカ系アメリカ人のCNNキャスター「わたし」がこのねじ曲げられひきのばされたもうひとつの昭和にまつわる陰謀に、ハードボイルドの探偵みたいに、まきこまれてゆく。

役割をいれかえながら実名で登場する人物。東日本の政権党の書記長中曽根康弘、反政府ゲリラのボス田中角栄、あちこちで暗躍する謎の男平岡公威(三島由紀夫の実名)、日本出身として初の大リーガーにして復活した東京ジャイアンツの初代監督長嶋茂雄などなど。さらに、さまざまな文学作品からの人名、設定、文章の自由自在な借用。気がついたところでは、メルヴィル『白鯨』、小栗虫太郎『黒死館殺人事件』、江戸川乱歩、とくにチャンドラーの『さらば愛しき女』からは物語の骨格そのものを流用している。

スラプスティックな笑い、ハードボイルドの叙情、冒険小説のサスペンス、ミステリーの謎、もうひとつの歴史の投げかける風刺。さまざまな異質な要素が調和した、とても贅沢な小説だった。

いや、まったく本当に。

西洋音楽史―「クラシック」の黄昏 (中公新書)

西洋芸術音楽の歴史のはじまりから終わりまでを明晰でめりはりのきいた表現で解説した本。

はじまりは中世のグレゴリオ聖歌から。単旋律で純宗教的な音楽が、徐々に複雑化、世俗化していき、ルネサンス時代の音楽になり、それがやがてバロック以降のいわゆる「クラシック音楽」につながってゆく。

絶対王制下のドラマチックなバロック音楽、市民階級のための啓蒙的な音楽であるウィーン古典派、そして音楽の大衆化が進み作曲家たちがこれまでにない自由を得て、百家争鳴のロマン派で絶頂期を迎える。19世紀末から第一次大戦までの最後の輝きの時代を経て、難解で前衛的な作品の登場はさらなる歴史の跳躍と当事者たちは思っていたようだが、実際にはそこで歴史は終わってしまった。

西洋芸術音楽は、新作の供給という面からは公式文化の座をすべりおち、サブカルチャーのひとつになってしまったのだ。代わりに、古いレパートリーの再演が西洋芸術音楽の主たる部分として残り[指揮者のアーノンクールの言葉に「18世紀までの人々は現代音楽しか聴かなかった。19世紀になると、現代音楽と並んで、過去の音楽が聴かれるようになりはじめた。そして20世紀の人々は、過去の音楽くしか聴かなくなった」というのがあるらしい。]、他方ポピュラーミュージックが花開いた。

中世、ルネサンスの音楽についてはまったく知らなかったので、とても興味深かった。本文中でいくつか紹介されていたので、ぜひ聴いてみたい。

あと、バロック〜現代の音楽をふだん iPod などでランダムにきいていると、フラットで、趣味の違いとしてしか感じられなくなってしまうが、社会状況などにも影響された歴史的な変化の結果そういうスタイルの音楽になっていることが再確認できたのもよかった。

最後に、いくつか興味深い話題を拾い出しておく。

  • バッハはバロック音楽としては例外的な存在。バッハが得意とした対位法や宗教音楽は一時代前のものだった。カトリックの文化とプロテスタントの文化の違い。
  • ロマン派音楽とは、「どんどん無味乾燥になっていく時代だったからこそ生まれたロマンチックな音楽」
  • シェーンベルクの悲劇。音楽の歴史を前進させるために、前衛的な技法を生み出したが、それが結局歴史の終わりを早めてしまった。
  • 1950,60年代のモダンジャズは芸術化したが、やがてクラシックと同じ歴史をくりかえし、前衛と娯楽に分化した。

クォンタム・ファミリーズ

夢中になって、一気に読んでしまった。

東浩紀自身の分身のような哲学者・批評家・小説家葦船往人とその家族たちがパラレルワールド間を行き来し、時代を飛び越え、新たな家族の絆を模索する本格SF(Speculative Fantasy)。量子回路のネットワーク、人間の意識を媒介にしたパラレルワールドというSF(Science Fiction)的な道具立てもさることながら、描かれている並行や未来の世界のリアルさは東浩紀の面目躍如たるところ。そこまでは予想通りだったが、物語を語る力の強さに驚いた。東浩紀は、詩人ではなくストーリーテラーだった。

ストーリーはマルチエンディングのゲームブックみたいな構成をとっている。いくつかのバッドエンディングを経て、最後に真の(それなりに苦い)エンディングにたどりつく。そこで、「ゲームはいつか終わる。ゲームを続けるためにはリセットをかけなくてはならない。それがゲームであることを思い出さなければならない。ゲームをプレイし続けるためにこそ、虚構の世界で生き続けるためにこそ、ぼくたちはつねにリセットボタンに手をかけておかなければならない」と、倫理が不可能になってしまう「世界の終わり」の中で倫理的に生きることを可能にするリアリズムが力強く宣言される。

個人的に好きなのは、風子が日本各地の廃村を巡礼のようにめぐる場面だ。(セカイカメラみたいな)拡張現実で、過去そこを訪れた人たちのつぶやきが、幽霊の声みたいに響くという着想がすばらしい。

これから定期的にこのレベルの作品を産出していけば、東浩紀の名は批評家としてではなく小説家として記憶されるかもしれない。