ウサギのためのエチカの最近のブログ記事

だいぶ時間があいてしまいましたが、大寒町の場末のビリヤード場にて。

杉之座「さて、まずは前回の復習から。スピノザによれば、神以外のものは存在しない。つまり、あらゆるものは無限に大きい神の一部分ということだったよね。その神にはいくつか「属性」とよばれる存在の仕方みたいなものがあって、ひとつが「考える」というありかたである『思惟属性』、もうひとつが『広がる』というありかたである『延長属性』。これ以外にも無限にあるらしいんだけど、人間にはこの2つしか認識できない、ということでした。さて、エチカで重要なのは圧倒的に『思惟属性』なんだけど、今回は『延長属性』の方を紹介するよ。」

Chuba「最初から延長戦かあ」

杉之座「うん、どちらかが参ったというまで続きます」

Chuba「参った」

杉之座「じゃこれからは罰ゲームね。さて、『延長属性』というか物質的な宇宙といってしまっていいと思うんだけど、スピノザがそれをどんなふうに考えていたかを説明するよ。もともと宇宙は神の身体なので無限に大きいのっぺりした羊羹みたいなもので、そこから様態つまり万物がうまれてくるんだけど、そのプロセスとしてスピノザはワンクッションおいて考えていたみたい。延長の場合は属性から直接うまれるのは『運動と静止』だとスピノザはいっている。つまり、羊羹を構成する微粒子がうにょうにょと動いている状態がまずある。それがある構成関係の中にとりこまれて一体として動くようになる。そしてそれが別の構成関係の中に入って・・・・・・というように最終的にウサギや人間ができあがるというわけ。」

Chuba「へえ、スピノザの時代に原子とか分子の存在は知られていたの?」

杉之座「科学的な原子論がとなえられたのは18世紀後半だからスピノザは知らなかったはずだけど、ただ古代ギリシアの昔から原子論はあったからね。そういう意味では知っていたはずだよ。さて、話をもどすと、スピノザのすごいところは、このいろいろなものを組み合わせる構成関係の方が本質的で、材料の方は置き換え可能なものにすぎないと見抜いていたところかな。あるものの本質というのは、そのものを構成している個々の部分をあわせたものじゃなくて、それをまとめあげて維持していこうとする力の方にあるんだよ。」

Chuba「椅子を例にとると?」

杉之座「椅子の脚が一本折れたって、修理して新しいのをつければいいわけで、そこには本質はない。椅子だって人に座られて壊れないように一生懸命ふんばってるでしょ。それが椅子の本質。生き物も同じことだよね。」

Chuba「その椅子はがたついていて今にも壊れそうだけどね。」

杉之座「形あるものはいつか壊れるからね。生き物もいっしょ。ただスピノザは、ものはすべてそのままあり続けようとする力をもっているからひとりでに壊れるとは思っていなかった。『いかなる物も、外部の原因によってでなくては滅ぼされることができない(3部定理4)』。もし滅ぼそうとするものがあるならそれは外部のものだ、ということだよね。スピノザとしては存在し続けようとする力(コナトゥス)がすべてだといっているんだから。」

Chuba「ところでなんでビリヤード場でこんな話をしているわけ?」

杉之座「よくぞ聞いてくれました。さて、さっきの微粒子の話にもどるけど、このビリヤードの玉を微粒子だと考えると、静止している玉はそのまま静止し続けるし、動いてる玉は摩擦とか衝突で邪魔されなければそのまま同じ方向に同じ速さで動き続けるわけでしょ。で、衝突する時間とか衝突後の動きも今の状態からわかるから、結局未来のことはすべてすでに決まっているということになるよね。つまりすべては偶然ではなく必然なんだよ。」

Chuba「うわ、それをいうためにわざわざビリヤード場?甘味処で白玉でもよかったじゃん」

杉之座「いや、それが必然だから。それに白玉は転がらないし」

Chuba「あれ、でも漁師が波乗りしてサイコロ振ったとかいう話きいたけど?」

杉之座「はいはい。量子力学ね。量子力学によればいわゆる素粒子は粒子というよりむしろ確率的な波と考えた方がいいといわれている。存在が薄められて時空にぼんやり広がっているような感じかな。で、観測すると粒子みたいな挙動を示すわけ。まあ、確率的な波なんてものは観測できないから、あたりまえといえばあたりまえ。その位置とか速度なんかは確率的にしかわからないんだよ。それが確率的な波といわれる理由で、どちらが先かニワトリとたまごみたいな話なんだけどね。ただ、確率的にしかわからないからといって、必然じゃないとはいいきれないでしょ?」

Chuba「つまり「神」はわかるかもしれないということ?」

杉之座「というか、現象として確率的でも、その裏では必然的かもしれない(笑)ということは、どんな場合でもいえるんだよね。ただ、その必然性を保証してくれる根拠が大きくゆらいだということは認めなくちゃいけないかも。」

Chuba「あとさ、さっきのビリヤードの例にもどるけど、確かにいったん動き始めちゃえば必然でもいいけど、最初にキューをつく人がいるよね。それはどうなの?」

杉之座「ふむ。一見自由意志のようにみえるけど、そのときの玉の配置を読み取り、過去の経験や自分の技量を考えにいれて、ねらいを決めたわけでしょ。そのロジックも経験から生まれたものだろうし、結局そこに自由などなく必然だ、とスピノザならいうだろうね。」

といいながらキューをつく。ガラガラガラ、ドッポン。

Chuba「ああ、ひとつもあたらずポケットに落ちちゃった。これも必然かな。」

人気のない朝の珈琲屋。テーブルの上で、カフェモカの生クリームをなめているChuba。

杉之座「さあ、コーヒーごちそうしたんだから、話の続きを始めるよ。今回のテーマは神。」

Chuba「この前、掲示板でムフフな情報教えてあげたら、「神」っていわれてとても感謝されたよ。」

杉之座「ひとのPCで何をしているかと思えば……。まあ、それはおいておいて、ここでいう「神」はそういうたくさんいる神じゃなくて、たった一人だけの神、一神教の神だよ。」

Chuba「それって、ジャクソンファイブとマイケルジャクソンの違いみたいなものかな?」

杉之座「ううん……。強引に話を進めるとさ、日本の神話でもギリシア神話でも、たくさんいる方の神は、ぼくらよりもちょっと力があるだけで、なぜぼくらやそのまわりの世界があるのかという説明にはなっても、今度は彼らや彼らが住む世界は誰が作ったのかということになってくるでしょ。そんな風に無限に原因を求めていくのは面倒なんで、最初からその無限の先にあるものを用意しちゃいましょうというのが一神教。だから無限だし、神自身を含めてあらゆる物事の原因だし、とにかくすごい存在ということになっているんだよ。」

Chuba「すご~い。」

杉之座「いや、神は今「すご~い」と思ったよりさらにすごいんだよ。何しろ無限だから。Chubaちゃんの頭の中で把握できるなら無限じゃないということになるでしょ。さて、こんなすごい神なんだけど、ひとつ弱点がある。一番最初に「あなたは神を信じますか」ときいたよね?それはどういうことかというと、神は誰にでもはっきりとした形でいるとはいえないんだ。少なくともふつうの状態では、目でみたり触ってみたり匂いをかいだりできないからね。だから、信じたり、信じなかったりすることができる。」

Chuba「それって、かなり致命的かも。」

杉之座「でしょ。だから、昔からいろいろな形の神の存在証明というのが考えられているんだ。その中からひとつ紹介すると、こんな感じ。神を信じている人は少なからずいるから、神は少なくとも頭の中には存在しているというのはいいよね。ということは、実際に存在する可能性があるということだよね。」

Chuba「うん、それくらいは認めてもいいかな。」

杉之座「でも、実際には存在しないと仮定してみようか。つまり、神は頭の中にだけ存在しているわけ。でも、頭の中にだけ存在している神よりも、実在している神の方が、「実在」という性質をもっている分だけ大きいといえるよね。そうすると、少なくとも実在する可能性はあるんだから、実在するかもしれない神は頭の中にだけ存在している神よりも大きい可能性があるといえる。ところが、さっきいったように神は無限(どんなものより大きい)なんだよね。その神より大きい可能性があるものなんて考えられさえしないはずだ。ところが実在するかもしれない神は頭の中にだけいるとされている神より大きくなってしまうので、矛盾がうまれる。つまり、神は実在しないという仮定がまちがっていたことになる。よって、神は実在する。」

Chuba「ええ?その矛盾は頭の中だけで起きてるんだよね?それってほんとうに矛盾なのかな?この100円賭けてもいいけど、なんだかおかしいよ。」

杉之座「ははは。この証明は11世紀のアンセルムスという神学者が唱えたものなんだけど、その当時からいろいろ批判の声があったみたいだ。ところで、その100円はぼくのだけど。Chubaちゃんにはかわりに頭の中だけの100円をあげるよ。」

Chuba「それじゃ、頭の中だけのアイスクリームしか買えないよ。」

杉之座「じゃ、頭の中だけでも涼しくして、本題に入るよ。復習すると、神は、一人しかいないし、無限だし、あらゆるものの原因だったよね。スピノザはたぶんこう考えたんだ。そんな偉大な神がいるかいないかよくわからないというのはおかしくない?もしいるとしたら誰もが間違いなくわかる形でいるんではないだろうか。実は毎日その存在をはっきりと感じているんだけど、それが神だということに気づいていないだけかもしれない、と。ところが、いざ探してみると、ひとつしかなかったり、無限だったり、ほかのものにまったく依存してないものなんて、そう簡単には見つからないよね。」

Chuba「というかそんなものぶっちゃけありえないよね。」

杉之座「ふつうに考えれば、確かにそう。でも、ここで発想の転換。そういうひとつひとつのものをすべてあわせたもの、つまりこの世界全体というか宇宙だね。それをひとつのものとして考えたらどうだろう。宇宙はとりあえずひとつしかないし、無限だし、その中にすべて含まれるんだからほかのものには依存してないよね。これは神と呼んでもいいんじゃないかな。」

Chuba「え、それじゃ、この宇宙が奇跡を起こしたり、悪人や不信心者に罰をあたえたり、とんでもないわしゃ神様だよとかいったりするわけ?」

杉之座「しないしない。だいたい、自分を信じないものに罰を与えるようなせこい神なんて尊敬できないでしょ。「神は自己の本性の諸法則にのみによって働き、何ものによっても強制されて働くことがない(1部定理17)」というようにただ絶対的な法則に従っているだけで、気まぐれに何かをしたりしなかったりすることはないし、ほかから影響をうけることもない。いいかえれば神のもとではすべては必然なんだよ。アインシュタインも「神はサイコロをふらない」といってるしね(あまり知られてないけど、アインシュタインはスピノザ主義者だった)。」

Chuba「なんか神らしくないよ。それなら宇宙と呼んでおけばいいんじゃないの?」

杉之座「鋭いね。エチカの定義によれば「神とは、絶対に無限なる実有、言いかえればおのおのが永遠・無限の本質を表現する無限に多くの属性から成っている実体、と解する(1部定義6)」ということになっている。宇宙といったのは「空間の広がり(延長)」という属性だけからみたときの話で、実はそれ以外にも無限に多くの属性があって、そこでも神は同じようにまるごとすべてなんだよ。だから宇宙といってしまうと神の一部だけになっちゃう。」

Chuba「「属性」ってなあに?」

杉之座「いやあ、「属性とは、知性が実体についてその本質を構成していると知覚するもの、と解する(1部定義4)」といってみても何のことかわからないよね。要は、物事の本質的なありかたかな。たとえば身体や物体が存在しているということはさ、前後左右上下の空間の中で広がっているということでしょ。逆に、どこにも広がってなければ、それは存在してないということだ。だから「広がる」という性質は身体や物体にとって本質的で、それは「延長」と呼ばれる属性だ。もうひとつ、「われ思うゆえにわれあり」というように心も「考える」からあるといえるわけでしょ。だから「考える」という性質は心にとって本質的で、そちらは「思惟」と呼ばれる属性だ。ほかにも属性は無限にあるらしいんだけど、人間はこの2つしかわからない。」

Chuba「ウサギのぼくはわかるよ。「巫女さん」属性、「メイドさん」属性とか。」

杉之座「とにかく、「猫耳」だろうが「眼鏡っ娘」だろうが、すべての属性について、神は唯一の実体なんだ。いいかえると神でないものは何も存在しないんだよ。」

Chuba「そうすると人間とかウサギは何なの?」

杉之座「スピノザの用語では「様態」。「様態とは、実体の変状、すなわち他のもののうちに在りかつ他のものによって考えられるもの、と解する(1部定義5)」。簡単にいうと神の身体にできたおできだね。そのコーヒーカップも100円もこの宇宙にあるありとあらゆるものがおできだよ。」

Chuba「何十億個もおできがぶつぶつできたところ想像しちゃったよ。気持ち悪い。ああ、その中にはゴキ○リもいるんだよね。なぜ神様はあんなものを作ったんだろ。(Chubaはゴキ○リが苦手です)。」

杉之座「それについては1部の付録に書いてある(定理―証明形式じゃないから読みやすいよ)。「一般に人々はすべての自然物が自分たちと同じく目的のために働いていると想定していること、のみならず人々は神自身がすべてをある一定の目的に従って導いていると確信していること」がすべての大元となっている偏見だとスピノザはいっているんだ。人間は日頃自分の利益のために動いている(と思いこんでいる)。たとえば早く寝るのは明日早く起きるためだし、早く起きるのは遅刻しないためだし、遅刻しないのは会社をくびにならずに給料をもらうためだ。こんな風に、自分が目的のために動いているから、自然物も同じようにある目的のために動いていると思いこんでしまう。目があるのはものを見るためだし、ほかの生物は人間の食料になるために存在しているし、太陽は照らすためにあるとね。台風、地震、病気はそれじゃ説明がつかないんで、神が怒っているということにした。で、自分たちの健康と神を喜ばせるために都合がいいものを善とよび、そうでないものを悪とよんで、そこから道徳が生まれたりしたんだけど、それはまた別の話。実は、神は、特定の目的のために何かを生み出しているわけではなく、「神の本性の必然性から無限に多くのものが無限に多くの仕方で(言いかえれば無限の知性によって把握されうるすべてのものが)生じなければならぬ(1部定理16)」というように、生み出すことができるものすべてを必然的に生み出しているだけなんだよ。その中にはゴキ○リも含まれる。妙に人間らしい神よりこっちの方がリアリティあると思わない?」

Chuba「でも、その神は信じても何もいいことないんでしょ。」

杉之座「信仰という意味ではそうだね。ただ、スピノザの考え方に触れるとなぜかとても元気が出てくるよ。」

Chuba「そういわれてみれば、ぼくも楽しい気分になってきたよ。」

杉之座「あれ?ここにあった100円が消えている。」

杉之座「アナタワァ、カミウォー、シンジマスカァ?……ああ、まってまって逃げないで。宗教の勧誘じゃないからさ。壺も売りません。今から何回かにわけてスピノザという哲学者の書いた『エチカ』という本の話をします。ひとりぼっちじゃさみしいんで、ちょっぴり辛口のウサギ、Chubaちゃんにつきあってもらいます。はい、Chubaちゃん、ごあいさつ」

Chuba「何様?」

杉之座「神様!」

Chuba「……」

杉之座「ごめん。これはでもある意味真実なんだけどね」

Chuba「あなたが神様ですか?」

杉之座「ある意味ね」

Chuba「確かに人間離れしてるけど」

杉之座「ムッ!ま、それはおいておいて、まずはスピノザについて簡単に紹介しちゃおう。バールーフ・スピノザは1632年アムステルダムで生まれた。画家のフェルメールと同い年だね。ユダヤの家庭に育ったんだけど1656年に異端的な主張を理由に教会から破門されている。ユダヤ人のコミュニティーを離れた彼は、大学などに職を求めず、慎ましやかに市井で暮らしながら哲学の研究を続けた。レンズ磨きの技術者だったという話もある。」

Chuba「技術者というと今でいうとプログラマーかな」

杉之座「スピノザは理系っぽいところがあるし、あまり賃金が高くなさそうなところが共通しているかもね。いつどうやって死んだかなんていうことはいわないでおこう。『自由な人は何についてよりも死について思惟することが最も少ない。そして、彼の知恵は死についての省察でなく、生についての省察である(4部定理67)』とスピノザ自身がいってるからね。」

Chuba「今ぼそっとつぶやいた定理って何のこと?」

杉之座「これから紹介していく『エチカ』――文句なしにスピノザの代表的な著作――は数学の本みたいに定義と公理があって、そこから定理を証明していくという形で書かれているんだ。」

Chuba「うへ」

杉之座「まあまあ、そういわずに。『エチカ』というのはラテン語で倫理学という意味で、つまり人はどう生きるべきかということをテーマに書かれた書物なんだ。」

Chuba「ウサギは?」

杉之座「『しかし、私は動物が感覚を有することを否定するのではない。ただ、我々がそのため、我々の利益を計ったり、動物を意のままに利用したり、我々に最も都合がいいように彼らを取り扱ったりすることは許されない、ということを私は否定するのである(4部定理37備考)』とスピノザはいっている。」

Chuba「ひえ~。いじめないでよ」

杉之座「いやいや、虐待しろといっているわけじゃないからね。心配しなくても、スピノザの論法を使えば、虐待してはいけないくらいのことはいえると思う。それは後で説明するとして、話をもとにもどそう。人は――ウサギも――どう生きるべきかということを示すことができたとしても、『なぜ?』ときかれたら別の『~すべきだから』ということを理由としてあげなくちゃいけないだろ。そうすると、それに対しても『なぜ?』ときかれて、スピノザお得意のフレーズを使うと『このようにして無限に進む』ということになっちゃう。それを避けるために、あえて『~である』という事実から『~べき』という倫理を導き出そうとしたんだと思う。でも、それが成功しているかといわれると微妙なんだけどね。」

Chuba「でも、評判になったんでしょ?」

杉之座「いろいろあってスピノザが生きている間には出版することができなかったんだ。死後、スピノザの遺志もあって匿名で出版されたんだけど、危険思想扱いされて100年近く日の目を見なかった。」

Chuba「どう生きるべきかというから説教くさいのかと思ったら、危ないんだ?」

杉之座「危ない。よく磨いだレンズを太陽にかざしたときみたいにね。どう、話をきく気になった?」

Chuba「う~ん、壺にはまった」

というわけで、Chubaちゃんが逃げ出すまで続きます。

『エチカ』の引用は畠中尚志訳の岩波文庫版によっています。またそれ以外の参考文献は以下の通りです。

  • G.ドゥルーズ『スピノザ 実践の哲学』鈴木雅大訳、平凡社ライブラリー
  • 上野修『スピノザの世界 神あるいは自然』、講談社現代新書
  • 『スピノザ往復書簡集』畠中尚志訳、岩波文庫