小泉氏の靖国参拝が憲法違反であるという判決がくだった。それについて小泉氏は「何で憲法違反か分かりませんね。」とか「何で外交に支障があるのか。日本人が靖国神社に参拝してどうしていけないのか。わかりません」と「わからない」をくりかえしているようだ。
それをいうなら、なぜ靖国神社に「戦没者に哀悼の誠をささげて二度と戦争を起こしてはいけない」ということで参拝するのか、ぼくには皆目わからない。それは縁結びの御利益がある神社で家内安全の祈願をするようなものであって、まるで筋違いなのだ。靖国にまつられているのは基本的に戦死した(病死は含まれない)兵士のみで、勇敢に死んでいった人たちを讃えるとともに守り神になってもらおうという場所だ。そこにふさわしいのは、「死んでくれてありがとう。これからもよろしく」という言葉なのだ。
靖国に祀られている人もそうでない人にも、ぼくが等しく投げかけたいのは「何の意味もなく死んでいった無念に深く同情します。安らかにお眠りください」という言葉で、それは靖国以外の場所でつぶやかれるべき言葉だと思う。というわけで、小泉氏のいっていることはまったくわからないのだった。

小泉が実際に心中でどう思ってるかはともかく、国の守り神とされてる霊に「もう大丈夫だよ、ありがとう。これからは戦争以外の方法で国を護るよ」、と誓いを立てて悪いとも想いませんけど。
悟りを得るための場所が観光名所になってるように、いつまでも「それがつくられた時の理屈」にばかりこだわってもしょうがないような。靖国で安らかにお眠りください、とつぶやいてはいけないという決まりはないのでは?
単なるアンチ靖国的心象でそんなこと言われても、実際にまつられてしまってるものたちが可哀想な気がする。彼らに罪はないんだから。
コメントありがとうございます。
なるほど。靖国神社の設立趣旨はおいておいて、時代の流れともに場所の性格は変化するし、今は、その場所で平和を誓うことは不自然ではないということですよね。
確かに、靖国に参拝することが軍国主義につながるとは思えませんし、小泉氏もおそらく心底平和を願っての参拝だったのでしょう。
さて、ぼくは唯物論者なので、霊というのものの存在を信じていないのですが、それでも死者というのは存在すると思っています。どこにかといえば、生きているぼくたちの心の中です。その死者たち、中でも先の大戦における大量の死者たちをどう扱えばいいのか、ときおりぼくは想像します。死者たちは明確な言葉で語りかけてはくれませんから。
靖国の価値観は讃えよといいます。でも、ぼくはそれに果てしない違和感を覚えてしまうのです。もちろん、あの戦争が傲慢さと愚かさがもたらした無意味なものであると認識しているせいもありますが(それは靖国の歴史観と根本的に異なるでしょう)、それ以前に死者を讃えることが死そのものを讃えることにつながると思えるからです。どんな形であれ、ぼくは死というものを讃えたくありません。それは懸命に生きようとあがきながら果たせなかった死者に対して敬意を欠いた態度に思えてしまうのです。
そういう靖国の性格も時とともに変化しているのは事実なのかもしれません。靖国神社のホームページ( http://www.yasukuni.or.jp/ )を読むと刺激的な言葉でなくかなり穏当な表現で書かれています。ですが、サイトマップの資料のところを読むと、まだまだあの戦争に対する認識や死生観はそのままなんだなと思わせるものがあります。
もともと、ぼくが靖国について書いたのは、参拝に反対するマスコミがいつも中国、韓国というように外圧ばかり利用するところに芸のなさを感じていたということがあります。内在的な倫理に基づいて反対する論を書けないかと思ったのです。それが成功していないのは自覚していますが、意図をお含みおきくだされば幸いです。