Journal: 2005年アーカイブ

たとえば、デジカメを一日貸してといわれて、貸してもいいいんだけど、その人がそれまで使っていたデジカメがレンズキャップがとれたようなやつだったりして同じようにぞんざいに扱われては困るなと一抹の不安がよぎるとき、そのことをどう伝えればいいだろう。

だめなのが、レンズに指紋をつけないで、とかいってしまうこと。これは表面的な意味とちがって、貸したくないという意思表示になってしまう。

正解はたぶん、ふつうに操作方法を説明する中で、キャップを閉める手順を確認することだ。

当たり前といえば当たり前だが、なかなかとっさに思いつかない。こういう文章でもそうだけど、伝えたいことを伝えるにはかなり高度でアクロバティックな技術が必要とされるなとつくづく思うのだった。

油猿

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firefox用のgreasemonkeyという拡張が話題になっている。簡単にいうと人様のサイトを自分用に書き換えてしまうソフト。サイトごとに実行するスクリプト(ユーザスクリプトと呼ばれる)をあらかじめ登録しておけば、自動的にサイトの見た目を書き換えてくれる。詳しくはGreasemonkey - Firefox まとめサイトを参照。

面白いと思ったのがGoogleAutoPager。「次へ」のリンクをクリックしなくてもスクロールすれば自動的に次のページの検索結果が表示されてゆく。

ぼくもいくつかユーザスクリプトというやつを作ってみた(7/26 以下のサンプルは新規に作り直しました)。

まずはスタイルシートでフォントサイズにx-smallやxx-smallが指定されていたら強引にsmallに変えてしまうというユーザスクリプト。特にlivedoor blogのユーザは本文のフォントサイズに x-small を指定している人が多くて、IEでは平気なのかもしれないが、firefoxでは蟻がはっているようにしかみえないのだ。GreaseMonkeyがインストールされていれば、リンクを右クリックしてメニューから "Install user script..." でインストールできる。

もうひとつ、Movable Typeの個別記事アーカイブページから編集ページへ飛ぶボタンを挿入するユーザスクリプト。下記のスクリプトのblogid等を必要に応じて編集してからどうぞ(blogidが'1'で通常の手順でインストールしていればおそらくそのまま使えます)。

功徳

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しばらく前から虫歯の治療を受けているのだが、歯にかぶせる金属を仮止めしたあと、そこでものを噛もうとすると鈍い痛みを感じるようになった。次の週に微調整してもらって幾分かは楽になったものの、その痛みは完全には消え失せなくて、長い仮止め生活を続けることになってしまった。

らちがあかないので先週一か八かで本止めにふみきったら、結果オーライ。痛みは雲散霧消した。今日、そのことを告げたら、歯科医の先生は満面の微笑を浮かべてくれて、なんだかぼくはとてもよいことをしたような気になったのだった。

夜遅く帰りついてみると、ドアの縁のところに釘の頭のようなものがくっついていた。なんだろうと思ってドアを開いて裏側から見るとつぶれたテントウムシ。ドアが開いたときにたまたま羽を休めて、閉まったときに犠牲になってしまったのだろう。幸運を呼ぶ虫のはずなのに、なんてついてないやつなんだ。なんだかその不運がべったりとぼくにこびりついて容易にぬぐい落とせないような気がしてくる。ああ、あたまを駈けめぐるあのメロディー……

♪あなたとわたしがヨミの国

消えた痛み

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麻酔されて虫歯の治療をされているときに思ったのだけど、今ぼくが感じているはずの痛みはどこにいってしまうんだろう?もし、麻酔をされていなかったら、悲鳴をあげて恥ずかしいだけでなく、痛みは確実にぼくの心身をむしばんでひどく消耗してしまうのは間違いない。麻酔により神経が麻痺している間にも、歯は確実に痛くなるようなことをされているわけで、その痛みがどこへともなく消えてしまい、本来消耗してしまうはずのぼくが平気でいられるのはちょっと不思議な感じがした。

きっと、言葉やお金のように、痛みとはいうのは実体がないものなのだろう。実際、それは身体の部位が心(脳)に向けて送る信号に過ぎないわけだ。でも、それならもっとスマートな信号でもよかったような気がする。たとえばウルトラマンのカラータイマーなんて理想的だ。胸のあたりにあってふだんは緑色だけど、調子が悪くなると赤く点滅する。音がでるから服をきていてもわかる。でも、電車のなかではマナーモードにしろとかいわれてしまうかもしれない。

朝に道を聞かば

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子曰く「朝に道を聞かば夕べに死すとも可なり」、というのは人に道を尋ねるような方向音痴は死んでしまえということでは決してなく、朝、真理を悟ることができればその日の夕方に死んでしまってもかまわないということなのだけど、悟った瞬間死んでもいいというのではなく、夕方まで待ってほしいというのがミソだと思う。

つまり、その間に何かやるべきことがあるわけなのだろう。せっかく悟ったことを、早速実践してみるとか、他人に伝えるために書き残すとか、いろいろありえるが、そういうことよりも何よりもやはり必要なのは頭を冷やす時間で、さっき悟ったあれはやっぱり間違いだったと思い直すことができるように、夕方までの時間はあるのではないかと思う。

そうして人生は続いてゆく。

四月の魚

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フランスやイタリアではエイプリルフールのことを「四月の魚」と呼ぶ……。

いつもはただ通り過ぎてしまう橋の上から身を乗り出している人たちがいる。その中にまじって水面を見下ろすと、水の代わりに魚がながれていた。体長10cmほどの小さな魚たちが何千匹もひしめきあいながら上流をめざしているのだ。この先には高速道路にふたをされた暗い流れが続き、やがて水は干上がってしまうはずなのだが、魚たちしか知らない道があるのかもしれない。

その魚たちは毎年きまって4月1日に姿をあらわす。見たといっても誰も信じてくれないので、このあたりでは「四月の魚」という名前で呼ばれている。

はじまりは昨日の深夜だった。

灯を消して布団に潜り込んだぼくに突然おそいかかったそれを、当然のように睡魔だと思ったのだが、なんか違う。もやあっと、まだ暗闇に慣れない視界がずれていって、意識もそれにあわせてずれてゆく。やばい、このまま意識を失ったら、二度と目覚めないかもしれない。そんな気がして、引きずり込まれないように、深い呼吸をしてみたり、身体を動かしたりした。それは眩暈というやつだった。寝ていて眩暈を感じたのは初めてだ。

今朝、起きてその症状は改善どころか悪化していて、当然仕事を休むべきだったのだが、やむにやまれぬ状況で、なんとか服を着込んで外に出てみた。こつは遠くを見ずに近く、自分の足下を見ることだ。そうすれば、いくらフォーカスがずれても容易に補正できる。

つらかったのは混んだ電車の中だ。つり革につかまってゆれていると、だんだん息苦しくなり、足にぶるぶる震えがきた。肉体的なつらさというよりこのまま意識を失うのではないかという恐怖にとらわれて、いやな汗が噴き出してくる。深く呼吸してものどのあたりがひりつくだけだ。隣駅のホームに着いた瞬間、外に飛び出して、ベンチにへたりこんだ。

そんなこんなで、会社にたどりつけたのは、ほとんど奇跡といってよい。でも、当然のように誰も祝福はしてくれない。目をつむると虹がゆらゆら揺れている。

ユーリカ

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疲れている。

誰もができることを満足にできないぼくではあるが、まれに誰もできないことをできたと思える瞬間がある。それは刹那的な直観のたまものであり、次に似たような状況が訪れたとしても、同じようにできるかどうかはまったくわからない。つまり、たまたまできたにすぎないのだ。

だから、わたしはこれができますとアピールすることはできないし、主にせっぱつまったときに発揮されるので、やばいことがそれほどやばくならずにすむだけで、何ら利益や利便を生み出すものではない。

ぼくはその能力ともいえない能力によりかかって、地上5cmの高さで、見物客が誰もいない綱渡りをしているのかもしれない。

でも、偶然のひらめきが訪れるたび、ぼくは叫び続けるだろう、「ユーリカ」と。

NHK番組改変問題がちまたでさわがれている。

いろいろ職業がある中で、「生み出す価値÷社会的地位」というのを仮に数値化できたとすると、日本で下位2つを占めるのではないかと思っているのが、政治家とマスコミ関係者で、今回の問題も、同じボケとつっこみを延々と繰り返す笑えない漫才をやっているようにしか見えなかったりもするが、たぶんオチはないのだろう。

この問題について特にいうことはないのだが、一般論として、公正な立場というのは、そういう特権的な立場があることを意味するわけではない。どんな立場もそれぞれに偏向しているのだ。複数の偏向した立場があることを前提として、その多数決をとることでも、平均値をとることでも、ひとつ上のレベルからメタに語ることでもなく、それら複数の立場の間でのコミュニケーションを求める姿勢のことを公正というような気がする。公正さの中に含まれる「正しさ」というのは、超越的に与えられるものでも、ただ漠然とそこにあるものでもなく、コミュニケーションの中で一瞬かいま見えるものだと思う。

ただ、このコミュニケーションはいつでもどこでも可能なものではない。

コミュニケーションをはばむもの一つが、いまはびこっている陰謀論だ。陰謀論を採用すれば、あいつが○○だというのは実は裏に××という意図があるからだということになって、何をいおうが××ばかりが受け取られてしまう。しかも、この誤った深読みは実は予言のような構造になっていて、結果としてあたってしまうのだ。

陰謀があると決めつけられた方(Aと呼ぶ)は、決めつけた方(Bと呼ぶ)の言葉にある意図を感じざるをえない。その意図は「Aはある陰謀をもっているので気をつけろ」というものなのだけど、Aは逆にBの側に陰謀らしきものを感じ取ってしまう。つまりどちらも「相手の陰謀に気をつけろ」という陰謀をもっていることになって、それは相手がもっていると想定している陰謀とは異なってメタなものだけど、結果的にとてもよく似てしまう。こうしてまさに予言は成就する。

これではコミュニケーションは不可能で、公正さもまた不可能になってしまう。

単純に陰謀論はやめろといいたいが、ごくまれに陰謀論が正しいことがあるのが困りものではある。

increment

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年が2004から2005にくりあがった。くりさがることなくいつもくりあがってばかりなのが不思議なところだ。たまにはdecrementもいいんじゃないか。

まあ、2004もそれなりにいろいろあった。観た芝居の数は21と前年をさらに更新したし、読書も小説以外の新書系を読むようになって幅が広がった。ドラクエ8にほぼ12月まるまる費やしたが、久しぶりにRPGを最後までクリアできたのはうれしい。真エンディングより、最初のエンディングの方が好きだったが。

さて、2005年。変わり映えのしないことこそが実は至福なのではないかと思ったりもするが、行き先は同じでもそこに至るまでの道は無数にある。これは散歩で学んだことだ。そういう意味でまたちがう日々が待っている。そう、ひとつ目標として15km以上歩くというのをいれておいてもいいかもしれない。1997年に記録をつけはじめてからまだ達成できていない。

あとは、結局のところ、なるようになれとしかいいようがない。お正月なので丁寧にいうと、なるようになっていただけないでしょうか。