Journal: 2006年アーカイブ

36度線

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年々、冬という季節が過ごしづらくなっている。寒さの訪れとともに体調をこわしてしまうのだ。クマならば冬ごもりをすればいいが、一応ヒトの身ではそういうわけにもいかないし、しかも安静にしているとかえって調子が悪くなるのだ。

風邪のようなはっきりした症状があるわけではなく、身体のだるさ、胃腸の不調、目まいなどが断続的にあったりなかったりする。今年はそれにくわえて、身体のあちこちに痛みを感じるようになった。寝ていたり安静にしていたりすると、特定の部位がときおりちくちく刺すように痛むのだ。その部位は日によってちがって、最初は左腰下部だったのが、いったん治まったかと思ったら、今度は左足、そして右足にやってきたりと神出鬼没の動きをする。

風邪かと思って熱をはかってみたら、なんと35度以下だった。もともと体温は低い方だったが、これだけさがっているとは思わなかった。どちらが原因でどちらが結果かはわからないが、そういえば血行もとてもよくないのだ。体温計を持ち歩いて一日何回かはかってみたが、食事をしたり動いたりすると少しは体温があがるものの、なかなか36度を越えてくれない。それがひとつの壁になっているのだった。

とりあえず、いくつかできることをしている。冷たい飲み物を飲み過ぎないとか、暖かい服装をするとか、紅茶や生姜を摂るようにするとか、風呂でよくあたたまるとか、ストレッチをするとか。冷えは万病のもとともいうし、気合いをいれて少しでも改善をはかろうと思う。

矢野顕子まで3m

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矢野顕子のコンサートは何度かいっているが、ライブハウスははじめてだ。矢野顕子のほか、ドラムスのクリフ・アーモンド、ベースのアンソニー・ジャクソンという珠玉のトリオ。はじめていった矢野顕子のコンサートもこのトリオだった。結成10周年といっていたので、おそらくちょうど結成したばかりということになる。

仕事を終えた後、南青山にあるブルーノート東京にたどりつき、慣れないシステムにどきまぎするが、どうにか会場に潜り込むことに成功した。

案内されたのは矢野顕子が演奏している場所のほんとうにすぐそばの席だった。見えたのはほとんど背中だけだったけど、そのエネルギーを身近に感られたのだった。正面からみることができる席に座っていた若い女性は、目をらんらんに見開いて、ほんとうに楽しそうな表情で身体全体でリズムをとっていた。そんな表情を見ていると、こちらにもその感激が伝わってくる。ギネスをすすりながら、演奏に酔うことができた。

アンコール含めて1時間15分くらいなので、時間は短いが、その分濃密だった。コンサートホールもいいけどライブハウスもいいな。

わけてもらったエネルギーを燃料に渋谷まで軽快に歩いた。

前回はとりあえず平衡状態にあるようなことを書いたが、書いている最中からそれは有名無実化していて、水面下で激しい攻防が繰り広げられていたのだった。

当初考えていたのは DAC付のヘッドフォンアンプだった。audio-technica製のAT-HA25Dだ。ヘッドフォンアンプといいながらライン出力がついているので、アクティブスピーカーに直結することができる。実売2万をきっていてお値頃だし、今までのUSBオーディオインターフェースをDAC代わりにする構成より論理的に美しい。だが、AT-HA25DにのっているDACがいままでのUA-3のDACよりいいという保証はどこにもなく、むしろ同程度と考えたほうがいいということに気がついた。

そこで矛先を向けたのはFirewire(IEEE1394)接続のオーディオインタフェースだ。USB接続のインタフェースと比べるとプロ向きで音質に気を配った製品が多い。特にコンパクトなAudioFire2に惹かれた。だが、その分価格は高めで、相性問題が発生するリスクが0でないことを考えると、もう少し広い範囲で探してみてからにしたかった。

それで気がついたのが、最近ぼちぼちでてきたUSB2.0接続のインタフェースだ。通常のUSB1.1のインタフェースに比べると帯域幅が広くて、安定性が期待でき、しかもコストパフォーマンスが高い。結局、発売されたばかりで評判のいいCreative E-MU 0202 USBを買ってしまった。光デジタル入出力を備え高機能な上位機種の0404 USBも考えたが、ACアダプタが必要というところが、気に入らなかった。

0202 USBの音質はすばらしい。一聴して音の透明感に驚いた。ライン経由のスピーカーだけでなく、専用のヘッドフォンアンプを通したヘッドフォンの音もいい。ただ、高負荷時のプチプチノイズは、軽減はされたものの、まだ発生している。当初の目的は果たせないことになるが、それでもいいと思わせる音質だ。

ついでにPCオーディオ関係の話題をもうひとつ。SonyからSonicStage CP(SonicStage Ver.4.2)が公開されている。Windows版のみだが誰でも自由にダウンロードしてインストールできる。iTunesのファイル形式AACにも対応済みだ(iTunes Storeで購入したファイルはだめ)。

使い勝手はiTunesに比べるといまひとつだが、DSEE(Digital Sound Enhancement Engine)という再生時に圧縮音源を高音質化する技術に興味を惹かれた。CreativeのX-Fiのような子供だましではなく、圧縮にともなって劣化した高音域をまじめに補完する技術のようだ。ところが、手持ちの128kbpsのAACファイルをDSEEのON/OFFを瞬時に切り替えて再生しても、差異をほとんど感じられない。AACというファイル形式にDSEEが対応してないのか、128kbsのAACは高域の劣化が少ないので効果が感じられないのか、あるいはぼくの耳が悪いのか。

キャンペーンは突然はじまった。

PCで聴く音楽なんて音源は圧縮形式のファイルだし別に音質はどうでもいいやと思っていたのだが、いまやピュアオーディオのコンポでは音楽を聴かなくなっている現状があり、逆にもとがひどいんだから少しの努力でも目に見えるような(というより耳に聞こえるような)効果が得られるのではないかと軽く考えたことが、あれよあれよという間に自分の中で盛り上がっていた。

こういうときに歯止めがきかないのが昔からの悪い癖で、なぜかといえばリアルな高音質ではなく、表層的に、こうしたんだから音がよくなっているはずという、「はず」の部分だけを求めてしまうからだと思う。「はず」か「はず」じゃないかを判断するのは耳ではなく美学のようなものなので、それを満たすような調和がもたらされるか、あるいはあきらめがやってくるまでは収拾がつかなくなってしまうのだ。以前、それで立て続けに二枚PCのマザーボードを買い換えたことがあった。

今回はBOSEのMicro Music Monitor(M3)という超小型のアクティブスピーカの購入からはじまった。握り拳大のサイズのくせに驚くような低音が出るのだ。その意外性とデジタルアンプ搭載というところにひかれてしまった。これそのものには満足したのだが、どんな音でもいい感じに聴かせてくれるスピーカではなくむしろあらを目立たせるタイプだったので、逆に不満を感じる部分がでてきた。

まず、スピーカーの低音で安っぽいベニアの机が共振するのが気になったので、インシュレータを自作することにした。自作といっても東急ハンズで円柱形に削り出された真鍮とハネナイトというふざけた名前の制震ゴムのシートを買ってきて貼り合わせただけだ。市販のインシュレータより少しだけ安くあげることができただけだが、自己満足が大きい。

次はオーディオインタフェースだ。今まではEDIROLブランドのUA-3というUSBデバイスを使っていた。一昔前の製品だが音は悪くないと思う。だが、USBデバイスの宿命といってもいいと思うが、微妙な相性問題があり、今のPCだと、負荷があがったときにプチプチノイズや音切れが発生してしまう。

お金がかかる対策を打つ前に今まで使っていなかったオンボードのサウンド機能を試してみることにした。IntelのHD Audio規格に対応したRealtek RLC880というチップだ。昔はオンボードのサウンドチップなんて一聴しただけで音の悪さがわかったものだが、これはヘッドフォンをつけるとさすがにサーというヒスノイズがわかるものの、スピーカーで聴く分にはそれほど悪くなかった。もちろん負荷をかけてもノイズはのらない。

それでしばらく様子をみようと思ったのだが、スタジオクオリティを超えるというふれこみのCreative Xmodをつい買ってしまった。圧縮音源の音質が向上するという。もちろんそれが単なるセールストークであることは理解していた。CreativeのPCI接続のサウンドカードにのっているX-Fiという音声処理技術がそのまま搭載されていて、リアルタイムに周波数を解析していろいろ複雑なことをしているらしいが、結果として出てくるのは低域と高域が持ち上げられた音だ。もちろん迫力は増すが、要はボリュームをあげているのとあまりかわらない。もっと地道に圧縮前のCDクオリティのサウンドの再現を目指してほしいところだが、それではふつうのPCのオーディオ環境では聞き分けられないだろう。購入者に満足感を与えるためには仕方のない商品戦略ともいえる。ぼくは、音質ではなく、高級感のある白くてコンパクトな筐体と中央のボリュームノブにひかれてしまった。「高音質化技術」なしでも、USBオーディオデバイスならばそれなりの音質だろうし、高負荷時のノイズもなくなるかもしれない。

ところが、結果として高負荷時ノイズはUA-3と同じくらいだった。つまりPC側に起因する問題なのだろう。しかもUSBにしてはヒスノイズが大きく、オンボードとあまりかわらない音質だった。無駄な買い物をしてしまった。

結局、今のところ、オンボードからデジタル信号を光出力し、UA-3に入れて、そこからスピーカーにつないでいる。つまりUA-3をDACとしてのみ使っているのだ。音質的にはもともとのUA-3のレベルだし、高負荷時のノイズもなくなった。一応めでたしめでたしだが、まだ何か物足りない。何が足りないかも、どうすればいいかもわかっているのだが、ちょっとそこまでするのはどうかという理性が働き、二の足を踏んでいる。

そうこうしているうちにiPod用のイヤフォン(松下製のちょっと高級なやつ)が断線していまい、左チャンネルが聞こえなくなってしまった。「音」にはまだまだ悩まされそうだ。

THE 有頂天ホテル スタンダード・エディション

少し前の話になるが、そういえば三谷幸喜監督の第3作『THE有頂天ホテル』のDVDを観たのだった。これまでのすばらしい2作をみてきた目からすると、今回は期待はずれというしかない。少なくとも映画館で観たりDVDを買うほどの作品ではなかった。

監督第1作の『ラジオの時間』はラジオ局のスタジオが舞台だった。素人の主婦が書いたラジオドラマを生で放送しようとするが、出演者のわがままなどで大幅に改変されてしまう。収拾のつかないままエンディングに入ろうとするが、本来の職業意識に目覚めた一部のスタッフの反乱で、もともとの凡庸な脚本を越える奇跡的なクライマックスを迎える。つまり、破壊と再生がぶつかりあう中から思ってもいなかったような新たなものが立ち上がる瞬間が描かれているのだ。余談だが、映画では壊す側のスタッフを西村雅彦、反乱するスタッフを唐沢寿行とわかれて演じているが、オリジナルの演劇版では西村雅彦一人が両方の役割を果たしていた。その方が人間ドラマとして、はるかに深みが感じられる。二人に分散させた方がわかりやすくはあるが、ちょっと疑問だ。

第2作目の『みんなの家』はマイホームを建てようとする家族の物語であり、建築にかかわる昔気質の大工の棟梁とアメリカかぶれの家具デザイナーの確執および和解を描いた作品だ。正反対の価値観をもっていて相互理解不可能と思われた二人が、実は深いところで共通なスタイルをもっていることに気がつく。最後には、自分の作った作品にバトンを渡すような象徴的な行為で幕が引かれる。

『THE有頂天ホテル』は核となる物語が不在だ。登場人物は、あらたなものにめぐりあって変化することはなく、ただ自己否定と自己肯定の間をいったりきたりしているだけだ。役所広司演じるホテルの副支配人は、過去の夢を捨てたせいで、今の仕事をどこか恥じている。香取慎吾演じるベルボーイはつまらないことで夢を捨てようとするが、つまらないことで思いとどまる。佐藤浩市演じる政治家は、二度の迷いから脱したようにみえて選んだのは単なるシニシズムだったりする......。とにかく登場人物に矜持や深みが感じられない。全体的に散漫で見終わった後物足りなさが残り、もう一本別の映画がみたくなってしまうような作品だった。

GIS関連の備忘録

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十数年前にPCを買ったのは、それで電子地図を見たり、地図上に情報を記録したりしたかったからだ。その当時は、インターネット上のサービスはおろか、地図ソフトというものもなくて、あまり精度の高くないカーナビのCDとそれを表示するためのシェアウェアで、さんざん苦労した記憶がある。

今では、個人向けGIS(地理情報システム)を自作して、散歩コースを記録したり、いくつかの地図メディア上で表示できるようになっている。もはやライフワークといってもいいかもしれない。最近もいくつかまとめて(個人的な)トピックがあったので、自分用の備忘録として書き留めておくことにする。

Flickrがgeotagに対応

写真共有サービスFlickrでそれぞれの写真に位置情報を付与できるようになった。もともと通常のタグの中に"geotagged geo:lat=35.659112 geo:lon=139.700860"形式の情報を埋め込むことでgoogle map等と連携するサードパーティー製のツールはあったのだが、それと同等なものをFlickrが自ら提供したのだ。ただし、使われている地図は日本付近の精度が極端に悪く、ほとんど「日本想像図」のレベルだ。現状は、従来通りGMiF(Google Maps in Flickr)などサードパーティのサービスを使ってタグ付けや表示をおこなった方がいいと思う。

とりあえず、ぼくの過去の写真ほとんどにタグ付けを行なった。記憶があやふやだったりもともと撮った位置をはっきり把握していなかった写真があったりしてかなり苦労した。

geotag表示ツール for プロアトラスSV2

ふだん使い慣れた地図ソフトプロアトラスSV2上でgeotagを得るために、VBSで以下のようなスクリプトを作成した。起動すると、自動的にプロアトラスSV2を立ち上げ、OKボタンを押す度に、そのときの地図の中央の位置の緯度経度をタグ形式に変換して表示してくれる。Cancelボタンを押すと、自らとプロアトラスSV2が終了する。

測地系の変換

たとえば(初期設定のままの)プロアトラスSV2で渋谷のハチ公前の緯度、経度を求めて、その座標値の場所をGoogle Mapsでみてみると新南口のあたりがでてくる。測地系(座標系)が異なるのだ。もともと日本では日本測地系(Tokyo Datum)という日本国内でのみ有効な測地系が使われていつつも、並行してGPSでは世界測地系(WGS84)が使われてきた。2002年4月から日本でも、ほぼWGS84と同等な日本測地系2000(JGD2000)が公的には採用されたが、いまだに地図メディアごとに測地系がまちまちなのが現状だ。

Google Mapsは2005年12月にWGS64に移行している。ぼくの個人向けGISではTokyo Datumでデータを保持しているので、変換をしなくてはいけないが、従来は試行錯誤で適当にずらしていた。せっかくPostGISというPostgreSQLに地理データを格納できるようにするための拡張を利用しているので、今回その機能で変換してみることにした。ところが変換してもほとんど値が変わらない。調べてみたら、PostGISにおけるTokyo Datumの定義がおかしいことがわかった(最新版でもなおっていない)。修正するには自分で定義を書き換えなくてはいけない。

KMLファイル

ついでに従来Google Maps向けには、自前でjavascriptを書いて、地図データは独自のJSON形式で出力していたのだが、それをGoogleEarthのファイル形式KMLにあらためた。KMLはGoogle Mapsで見ることもできるし、ダウンロードしてGoogleEarthで開くこともできる。現在このサイトで公開している散歩の地図データはすべてKMLに変換済みだ。

PostGISのバージョン

最近というわけでもないが、数ヶ月前にはまったPostGISのバージョン問題に触れておこう。現在のPostGISの最新バージョンは1.1.3だ。ところがぼくはまだPostgreSQL8.0のインストーラに同梱されていたPostGIS0.9.1を使っている(環境はWindowsネイティブ)。まず、PostgreSQLごとアップグレードしようとして、PostgreSQL8.1.4と同梱されているPostGIS1.0.5をインストールしたが、あるクエリーを実行すると確実にPostgreSQLが落ちてしまう。そこでPostGISを最新に入れ替えようと、ここから1.1.3のバイナリーを入手したが、エラーが発生してインストールできない。調べてみたら一部の日本語版WindowsXP SP2でだけ発生している問題で、対処の方法がないようだ。仕方なくすべてもとにもどしたというわけだ。

惑星

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冥王星が惑星ではなくなってしまったらしい。といっても冥王星そのものに変わりがあるわけではなく、「惑星」という言葉の定義が変わってしまったのだ(というより明確になったといったほうがいいか)。新しい定義は「太陽の周りを回り、十分重いため球状で、軌道近くに他の天体(衛星を除く)がない天体」といういささか直観的でないものだ。なんだか冥王星を惑星からはじきだすために無理矢理作った定義のような気もするが、冥王星は他の惑星と比べると極端に小さく、しかもその後同じような天体がいくつか近くで発見されていることもあり、「惑星」のインフレーションを避けるためには仕方ないところなのだろう。

たとえていうと、こんな感じだろうか。格調高い会員制クラブ「惑星」は新しいメンバーを募集していた。久しぶりにあらわれた候補者プルート君は既存のメンバーに比べるとかなり社会階層が下で性格も変わり者だったが、その当時は入会条件がはっきりしていなかったので、とりあえずメンバーとして迎え入れた。ところが同じような参加希望者がたくさんあらわれるようになったので、苦肉の策として、クラブは「一戸建てに住んでいる」という条件を明確に謳うようになった。これで、集合住宅住まいのプルート君は退会になり、ほかの希望者も門前払いされてしまった。ううん、なんかどうしても差別的になってしまう。

さて、それで墓場の中で喜んでいる(もちろん比喩的な表現)のがホルストかもしれない。各惑星をテーマにした組曲『惑星』の作曲者だ。この曲が作曲された1916年にはまだ冥王星は発見されていなかったので、組曲の中に『冥王星』は含まれなかった。今まではこの曲を紹介する度に、『冥王星』がない理由を説明しなくてはならなかったが、今後はそのめんどうな責務が免除される。

かわいそうなのがコリン・マシューズという現代イギリスの作曲家だ。彼は、組曲『惑星』とあわせて演奏するために依頼されて、『冥王星』という曲を書いたのだ。この曲が『惑星』に併録されているCDも存在するが、(今回の件で一時的に話題になるかもしれないけど)今後そういうことは期待できなくなるだろう。

そういえば、組曲『惑星』に含まれない星がもうひとつ存在する。この地球だ。ホルストは天体としての惑星をイメージしたわけでなく、占星術からインスピレーションを得たので、当然地球は除外されてしまうわけだ(空を見上げても地球は見えない)。

物理学者は思考実験の中で猫を半死半生の目に会わせたりして、残酷な人たちだと思っていたけど、リアルに猫殺しをしている小説家がいるようだ。

小説家の坂東眞砂子さんがエッセイの中で猫殺しを告白して、ちょっとした騒ぎになっている。自分の飼い猫に避妊手術をするのは彼らの「生」の経験を奪うことになる。だけど、子猫が野放図に生まれてしまっては飼い主としての社会的責任が果たせない。「人は他の生き物に対して、避妊手術を行う権利などない。生まれた子を殺す権利もない」が、どちらかを選ばなければいけない。坂東眞砂子さんはあえて後者を選び、生まれたばかりの子猫を崖下に投げ捨てて殺しているのだそうだ。

「生き延びるために喰うとか、被害を及ぼされるから殺すといった生死に関わることでない限り、人が他の生き物の「生」にちょっかいを出すのは間違っている。人は神ではない」とはいうけど、道徳的な判断を持ち出して他の生き物の「生」にちょっかいを出さないようにすることこそが、まさに神の視点なのではないだろうか。むしろ、人間が他の生き物の「生」にちょっかいを出すことが、自然の一部ともいうこともできる。

だから、ちょっかいを出すことそのものが悪いのではなく、その出し方が問われるのだと思う。二つの「間違ったこと」のうち仕方なくひとつを選んだなどというのはエクスキューズになっていなくて、子猫殺しはあくまで主体的な選択なのだ。

ぼく自身、子猫を殺すというちょっかいは最悪だと思うが、ただそれを声高に糾弾できるほどの正義がぼくらにあるとも思えない。実際、他の生き物に対するかなり迷惑なちょっかいの上にぼくらの生活は成り立っている。

たぶん、ぼくらにできることは、動きやすい服装で、崖下にたつことだ。野球の外野手のように上空を見上げて、放り投げられる子猫が地面にぶつかる前にうまくキャッチするのだ。それもまた他の生き物の「生」に対するちょっかいだけど、坂東さんもさすがに間違っているとはいわないだろう。

Reclaiming Yasukuni

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靖国はイデオロギーにまみれた場所です。そこで行なわれる行為はなんらかのイデオロギー的な意味づけを持たざるを得ません。イデオロギーなんて関係ないなんて無知を装ったり、強弁したりしても、それこそがもっともイデオロギッシュな行為にほかなりません。意図的であるなしにかかわらず、そこでなされた行為がもたらすイデオロギー的な意味づけは、自ら引き受ける覚悟が必要です。もし、その覚悟がないのなら、その行為をしてはいけないのです。

さて、今回はその靖国が、イデオロギーの呪縛から脱し、誰もが心おきなく訪れることができる場所になるためには、何を変えなければいけないか、ということについて考えてみました。

基本的に変えなければいけないことはひとつです。ただそのひとつの変更と整合性をとるためにあわせて見直さなければいけないことがいくつかあります。それについては終わりの方でふれます。

まず結論を書いてしまうと、「軍人、軍属の戦死者だけでなく空襲などによる民間人の戦没者もあわせて祀る」ということです。その背景と目的を述べていきたいと思います。

さて、戦争の死者のうち軍人、軍属だけを特別扱いするのは別におかしなことではありません。諸外国でもふつうに行なわれていることです。国家というのは、おおむね、封建体制→絶体王政→(比較的民主的な)国民国家というふうに進化(?)してきてますが、これは戦争に勝つために進化を余儀なくされたという側面があります。つまり一部の階級の人間だけが戦う封建体制より、国民全体がいやいやでなく自主的に戦いうる国民国家の方が圧倒的に戦争に強いわけです。このように国家と戦争はきってもきれない関係にあります。そういう意味で、国家は常に戦死した軍人・軍属を「顕彰/追悼」し続ける必要があるわけです。今、「顕彰/追悼」とペアで書きましたが、軍人・軍属を対象とする限り、この二つは一枚のコインの裏表のように分離できない関係にあります。兵士を選択的に祀るということの中に不可避的に顕彰という意味が含まれてしまうのです。

この「顕彰/追悼」は、戦争に勝ち続けている限り(少なくとも大きく負けない限り)は問題なく続けることができますが、無条件降伏に近い大きな負け方をしたときに壁にぶちあたります。つまり、戦死者をほめたたえるのが困難になるのです。論理的に考えるならば、対外的に軍人・軍属は糾弾される立場になりますし、対内的にも敗北の責任を問われてしまうからです。ただし、通常そういうケースでは体制が一新されるので「顕彰/追悼」はリセットされることがほとんどでしょう。日本が太平洋戦争で負けたときが特殊でした。過去の体制や人材を引き継いで、その上に接ぎ木のように新憲法と民主主義を重ねたのです。それには好都合な面もありましたが、戦争の位置づけをあいまいにしたせいで、結果的に不発弾のような形で戦前の軍国主義の残骸を残す形になってしまいました。靖国もそんな残骸のひとつです。

靖国が従来通り「顕彰/追悼」を行なおうとした場合、たぶん次の二つの理由付けが考えられると思います。ひとつ目は、国家のために命を捧げることそのものがすばらしいのであって、結果はどうでもいいとするものです。これはほぼ戦中にとられていた考え方ですが、戦争の被害の記憶が生々しいときに説得力をもたせるのは難しいです。もうひとつが、戦争には負けたけどなんらかの義は残る。その義のもとで死者を顕彰するという方法です。具体的には、大義がある自衛のための戦争だったという形で、ひとつの悲劇としてまとめあげます。こちらに関しては、どんな戦争でもどちらの側にも大義はあるわけで、その大義のもとで人々が豊かで安定した生活を築けているかどうかという結果論で判断するしかありません。そうするとやはり敗北という事実は重いです。しかも、そのために国内で310万、国外で少なく見積もって2000万人の死者を出していることを考えれば、そこに義を見いだすことは、ひとつめの国家に対する犠牲そのものを顕彰することより難しいような気がします。しかし、靖国は、一貫してこのうち後者のスキームをとってきました。具体的には、境内にある遊就館という施設で行なわれている日中戦争、太平洋戦争(靖国の用語では大東亜戦争)に肯定的な展示と、1978年になされたA級戦犯刑死者の合祀(ちなみにBC級刑死者についてはそれより早く1959年に合祀されています)がそれにあたります。これらは単なる靖国運営者の趣味ではなく、顕彰を可能にするという必要に迫られてのものです。

さて、話をもとにもどすと、今回提案しているのは民間人の戦没者の合祀です。目的は、「顕彰/追悼」のペアのうち、「顕彰」をはずして「追悼」だけにするということです。民間人が加われば、「顕彰」という意味づけはかなり薄くなります。上で、国家と戦争は切っても切れない関係にあり、国民の犠牲の顕彰/追悼が必要になると書きましたが、新憲法が発布されたとき、日本人はいち早く、その犠牲の義務を免除されました。ある意味「顕彰/追悼」のうちの追悼は過去の死者のため、顕彰は未来の死者のためのものです。未来の戦死者が出ないならば、顕彰の必要はないのです。

そうすれば、靖国が過去に果たした、国家のために死ぬことを讃え戦意を高揚させるという象徴的な役割も徐々にほんとうの意味で忘れられてゆくでしょう。また、顕彰をはずすことにより国家神道と決別できれば、宗教色もあまり問題にはならなくなるでしょう。

さて、目的が追悼だけになれば、太平洋戦争を肯定したり、A級戦犯を祀ることは自然と不要になるはずです。A級戦犯についていえば、もちろん戦争(およびその敗北)は彼ら「だけ」の責任ではないでしょう(しかし当然ながら彼らには大きな責任があったのも間違いないところです)。責任を彼らだけにおしつけ、その他の兵士、国民、天皇などがむしろ犠牲者として免罪されたのは一種の虚構です。でも、それ以外にありえた決着の中では、一番犠牲の少ない形だったのではないでしょうか。その虚構を受け入れて、今の日本という国の形があるわけです。そしてその虚構はこれまでのところそれなりにうまくいってきたと思います。もし、A級戦犯の刑死者たちだけに罪を押しつけて申し訳ないと思うならば、心の中で礼をいえばいいのです。表だって祀り上げてしまえば、それこそ彼らの死が無駄になってしまいます。

戦争が終わってから今までに長い時間が過ぎ去りましたが、その時間はむしろ靖国のイデオロギーを維持することに費やされてきました。特にこの数年はそうでした。このエントリーを書くために参考にした坪内祐三『靖国』という本は、靖国に好意的な視点で書かれてはいますが、靖国という空間の多様な魅力を伝えてくれるいい本です。そこに描かれている開放感をイデオロギー抜きで味わえる日が来るのを待ち望みながら、ちょっぴり長くなってしまったこの文章を終えたいと思います。

子供時代の唄

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子供が子供だったころ
腕をぶらぶらさせて歩いた
せせらぎが川になったらいいなと思った
川が滝に
水たまりが海に

子供が子供だったころ
自分が子供だと知らず
すべてに魂があり
すべての魂はひとつだった

子供が子供だったころ
好き嫌いもなく
癖もなかった
足を組んで座り
いきなり駆けだした
髪に寝癖をつけて
写真に写るときもすまし顔をしなかった

子供が子供だったころ
この質問たちの出番がくる
なぜわたしはわたしで君じゃないの?
なぜわたしはここにいてそこにいないの?
いつ時間がはじまって、いつ宇宙は終わるの?
お日さまの下で生きているのは単なる夢じゃないのかな?
わたしが見たり聞いたり嗅いだりするものは
世界がはじまる前の世界の幻じゃないの?
悪いことをする人がいるとしても
悪ってほんとうに存在するのかな?
このわたしが生まれる前にはわたしは存在しなかったってどういうこと?
そして、このわたしはいつかわたしじゃなくなるの?

子供が子供だったころ
ホウレンソウやエンドウ豆、ライスプディングをのどにつまらせた
蒸したカリフラワーもだ
今じゃちゃんと食べられる、いやいやじゃなく

一度だけ見知らぬベッドの上で目覚めた
今では何度も何度も目覚める
たくさんの人が美しく見えた
今じゃ一人か二人だけ、それも運がよければ

天国のイメージがはっきり見えた
今じゃせいぜいあるかもしれないと思うだけ
虚無なんて考えもしなかったが
今はその考えに震える

子供が子供だったころ
夢中になって遊んだ
今でも同じく興奮するが
仕事に関することだけだ

子供が子供だったころ
リンゴとパンだけで十分だった
今も同じ

子供が子供だったころ
イチゴで手がいっぱいになった
今もそうだ
新鮮なクルミは舌がちくちくした
今もそうだ
山に登るたび
さらに高い山を求め
街にたどりつくたび
さらに大きな街を求めた
今でもそうだ
一番高い桜の枝に手をのばした
今もその元気は残っている
人見知りをした
今でもそうだ
最初の雪を待った
今でも同じように待つ

子供が子供だったころ
木に向かって棒を槍のように投げつけた
今もそれはそこで揺れている

"Lied vom Kindsein(Song of Childhood)" by Peter Handke(Original, English)

300円で買ったもの

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駅のすぐそばだと思っていた酒屋はことのほか遠くて、しかもすでに閉まっていた。踵をかえすとはすむかいのマンションの前で男女が抱き合っている。背は高いが、もうあまり若くない男の首に腕をまきつけている女は、こちらからは後ろ向きになっていて顔や年齢はよくわからない。キスを交わしていたが、たぶんどちらの息にも大量のアルコールの臭いが混じっていただろう。見ているだけで酔っぱらいそうだった。

ふたたび駅に近づいたところで、酔って顔を赤くした白髪交じりの男に声をかけられた。「中央林間」というから道を尋ねたいのかと思ったが、中央林間は東京の真ん中のその駅からは果てしなく遠い。いや、中央林間まで帰りたいのだが、定期券を落としたので、お金を貸してほしいという。よくある寸借詐欺の手口だが、請われた金額は200円か300円。しかも男の様子は少なくとも寸借詐欺の常連のようには見えなかった。男にはある種のダメさが漂っていたものの、それが通行人から200円か300円という少額を請うてしまうダメさなのか、定期をなくしてしまうダメさなのか、どちらか判断できなかった。

ぼくが200円ならといいかけると、男は300円にしてくださいと、憐れみがましい声をだした。結局300円で交渉成立。

もちろんこれが寸借詐欺だった可能性は低くない。300円という額ならぼくのように払ってあげてもいいと思う人は少なからずいるはずだし、酔客の多い場所でやれば成功率も高いだろう。しかも親切な人で、ちょうど100円玉を切らしていたりしたならば、500円とか1000円をあげるひともいるだろう。思ったよりうまい手口なのかもしれない。

別にそれでもいいと思った。酒の代わりに、ぼくは、その男から300円でこのネタを買ったのだ。

デジイチ

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new camera - P1010247

デジタル一眼レフカメラのことを「デジイチ」ということをついこないだ知ったような気がする。毎週カメラを持ち歩くうちにコンパクトデジカメの画質に満足できなくなってしまい、それまでは別世界のものだと思っていた「デジイチ」が意外と手が届く範囲にあることを知り、このところずっと各機種のカタログデータや作例をチェックしていた。どれかひとつになかなか絞りきれなかったのだが、ゴールデンウィーク直前ということもあり、各パラメータ重み付けして順位を出してみた。その結果堂々の一位に輝いたのは Pentax *istDL2。軽さとコストパフォーマンスが評価された形だ。

仕事帰りにちょっと足をのばして川崎のヨドバシにいってみたら、何と*istDL2のレンズキットがタイムサービスで71,100円になっていた。天の配剤とばかりについ購入してしまった。

気がかりは大きさ、重さだった。もちろん物理的に持てないということはないものの、散歩の途中でどれだけ負担になるか読めなかった。写真を撮りにどこかにいくのではなく、どこかにいくついでに写真を撮るというスタンスを守るには、カメラを持っていることを意識せず、忘れてしまうくらいがいい。忘れすぎてどこかに置いてこない程度にだが。

結論をいうと、どうにか平気かなというレベルだった。交通機関では散歩用のカバンにどうにか収まるし、歩いている最中は、ストラップで肩にかければ気にならない。

そのほかの点についていえば、画質はほぼ満足。オートフォーカスがなかなかあいにくいのが欠点だが、まあ価格を考えれば仕方ないだろう。使い込んではじめて、どういう機能・性能が必要なのかが見えてくる。

この問題はAdobeからCameraRaw3.4がリリースされたことにより解決した(ダウンロードもうひとつ、RAWファイルがPhotoshop CS2で現像できないという問題があったが、これは発売時期の関係でまだ対応していないせいだった。ファイル形式そのものは *istDL と同じなので、ヘッダ部分の文字を1文字書き換えてあげればよい。あるディレクトリ以下のPEF(PentaxのRAW)ファイルを一括変換するrubyスクリプトを作ったので、一応公開しておく。なお、exifのカメラ情報が *istDL になってしまうので注意。

もうひとつおまけに書いておくと、PentaxのRAW形式PEFだとサイズが大きいので、AdobeのDNG形式に変換して保存している。ファイルサイズが約半分(10MB→5GB)になる。変換はAdobe DNG Converterにより一括しておこなっている。こちらもPhotoshopユーザならば無償でダウンロードして利用できる(ダウンロード先はCameraRawと同じ)。

偶然の風景―写真術2

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不遜なことに前回写真の撮り方について書いてみたが、今回はその続き。

前回写真に映るのは見ているものじゃなくて視線が映ると書いたが、その視線を逆にたどると眼そして脳にいきつく。視線を生み出したのはこの脳の中にある意図だ。いい写真であることの条件は視線がシャープであることで、視線がシャープであるためには意図が明確でなくてはいけない。

ただし、意図が明確であるだけでは、リアリティのないこじんまりとした写真になってしまう。いい写真を撮るためにはさらに偶然の力を借りる必要がある。偶然というのには二種類あって、ひとつはほんとうに偶然その時間その場所に居合わせた人や物で、あともうひとつは、その場で判断することのできないさまざまな条件(アングル、光の加減)だ。偶然はある場合に写真をひきたててくれるが、別の場合にはノイズになる。完璧にシミュレーションをおこなって、都合がいい偶然がおきたときにシャッターをおすことができれば文句なしだが、そういうわけにはなかなかいかない。

そこで、気に入った対象が見つかったときは、アングルを変えて何枚か撮るようにしたほうがいい。その中でベストのものを選べば、統計的に写真のレベルがあがるし、さらに、それを繰り返すことにより、学習効果で何がよくて何が悪いかをその場で判断することができるようになる。つまり事後的なシミュレーションができるのだ。

これは写真についての話だけど、実は表現全般にあてはまることかもしれないと、今こうして文章を書きながら思っている。文章も視線がシャープなほうがいいし、適度に本論からはずれたことを混ぜ込んだほうが面白くなる。それはいわば偶然の力だ。そんな風に、このところ写真と文章の共通点について考えている。写真をきわめれば文章もきわめることができるのかもしれない。

写真術

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最近、写真にこっている。この半年間におしたシャッターの数の方がそれ以前の合計より多いはずだ。やはり、写真共有サイトFlickr!に加入したことが大きい。自分の撮った写真に対し、世界中の人から何らかの反応をもらえるかもしれないという可能性(今の段階ではまだ可能性と書いた方が正確だ)は、かなり志気を向上させてくれることなのだ。http://www.flickr.com/photos/chez_sugi/から見られるので、ご用とお急ぎでない方はご覧ください。

散歩には必ずカメラを持ち歩くようになり、シャッターをおす経験を重ねるにしたがって、写真の撮り方というのがわずかながらわかってきたような気がする。自分用の備忘録として、いくつかポイントを書き留めておくことにする。

最初に知っておかなくてはいけないのは、写真には目的に応じて二つのカテゴリーがあるということだ。記録としての写真と、表現としての写真だ。前者は、まず、ある被写体を記録する必要または衝動があって、その手段として写真がある。報道写真、観光地の記念写真などはこちらに属する。後者は、写真を撮ることそのものが目的であり、被写体はそのときどきによって入れ替え可能な飾りに過ぎない。

この二つのカテゴリーは明確にわけられるものではなく、かなりの部分がオーバーラップしているし、実際に写真を撮るときは、被写体にひかれる衝動と、それをどう写真として表現すべきかという冷静な態度が、同時並行的に存在している。問題は二つのうちどちらに重点を置くかによって撮り方が異なることだ。記録ということでいえば、被写体はフレームの中にすべて収まっていなくてはいけないし、ピントは隅々まであっていたほうがいい。だが表現という見地からみれば、そんな写真は退屈きわまりないのだ。自分がどちらのカテゴリーの写真を撮るのかをシャッターを切る瞬間に意識する必要がある。

以下に書き留めるメモは主として「表現」としての写真を撮るときの話だ。ここに書いたとおりにぼくができているというわけではなく、事後的に「ああこうすればよかったんだ」と了解しながらもなかなか実践できないことをあつめている。

  • 写真が映すのは視線だ――別のところにも書いたが、写真は見ているものを映すのではなく、自分がそれをどこからどんな角度でみているのかということを記録する。その視線はシャープであればシャープであるほどよい。だから、ぼんやりといい風景だなと思うものをそのまま映してもだめで、必ずその中からどこか一点に注目しなくていけない。注目できるものがないとしたら、それは写真には映らない風景なのだ。
  • 切る勇気――対称性を強調したい場合を除いて、被写体はフレームのはじにあったほうが動きがあって面白い写真になる。さらに被写体をフレームに収めることにこだわらず、その中の一部を切り取った方が、強い印象を残せる。だが、少なくとも最初は被写体にひかれたわけだから、それをフレームから追い出すというのは、衝動に逆らうことになるし、勇気が必要だ。全体とアップを1枚ずつ撮るか、あるいは、今の高解像度のデジカメなら撮ってからトリミングしても十分解像度を確保できるので、撮るときは全部収めてしまってもいいかもしれない。
  • ぼけとつっこみ――写真の特徴としてピントがあった部分はくっきり写り、ピントからはずれるとぼやけるが、これを効果的に使えばめりはりがついた写真になる。具体的には、絞りを開けば(同じ露出ならシャッタースピードをあげれば)ぼける領域が広くなるはずなのだが、コンパクトデジカメの場合、最大限に絞りを開いても、ほとんどぼけてくれない。それでもぼけの効果を得たいときは、被写体にはできる限り近づいてレンズを望遠にすればいい。それができないときは、(邪道だが)撮影時には全体をくっきり撮って、あとでPhotoshopなどのレタッチソフトを使ってぼかすこともできる。
  • 遠近両用――視線やぼけの話と関連するが、1枚の写真にはカメラから等距離のものだけ映すのではなく、近いものから遠いものまでめりはりをつけたほうがいい。遠近法のパースが感じられれば視線の誘導にもなるし、単純にななめの線があるだけでもおもしろみがでてくる。
  • 道具を知る――カメラのマニュアルにはちゃんと目を通そう。ストロボのオフの仕方、保存形式の変更、露出補正、絞り/シャッター速度の組み合わせ変更、オートフォーカスの方式など設定できることは知っていても、具体的な手順を把握しておかないと、現場で調べながら設定しようとは絶対に思わないからだ。
  • ハイライトを基準に――いまやレタッチソフトでいくらでも画像を加工できる時代だが、それでも救えないケースがいくつかある。そのひとつが露出オーバーだ。露出アンダーは補正できるが、露出オーバーの焼き付いたような白はどうあがいても白のままだ。自分で露出をあわせるなら撮影時にこるのはやめてとりあえず一番あかるいところにあわせて撮るか、あるいはカメラに適当にまかせておいた方がいいと思う。あとからいくらでも補正できるからだ。特にRAWモードで記録できるカメラなら撮影後に操作できる範囲が広いので、なおさら自動露出がお勧めだ。
  • 手ぶれ防止――救えないケースのもうひとつが手ぶれだ。でかける時間が遅いのですぐに暗くなってしまうことが多い。夕暮れや夜の写真も魅力的なのだが、どうしても手ぶれが発生しやすくなる。かといってフラッシュをたくと平板な写真になってしまうし、三脚を持ち歩くのも骨がおれる。最近のデジカメには手ぶれ補正機能がついていたり高感度撮影が可能なものもあるが、それでも限界がある。仕方ないといえば仕方ないのだが、少しでも手ぶれする確率を減らすなら、次のような方法がある。カメラをしっかりホールドして脇をしめるという方法のほかに、①カメラを水平や垂直な場所に接地して撮る。②自分の身体を壁にもたせかけたり座ったりする。③連写で複数枚続けて撮る(下手な鉄砲も数打ちゃ当る)。④写真の神様に祈る。

ジム・ジャームッシュの『コーヒー&シガレッツ』の最後のエピソード「シャンパン」で、くたびれた二人の男ビルとテイラーがまずいコーヒーを飲みながら、武器庫の片隅で休憩していると、かすかにマーラーの歌曲が聞こえてくる。それは彼らの会話の中から生まれた幻聴なのだが、建物の中をいっぱいに満たす。テイラーはそれを世界でもっとも美しく悲しい曲と表現する。

わたしは世界に見捨てられた
かつて多くの時を費やした場所から
もう長いことわたしのことを話す人はいない
わたしが死んだと思っているのかもしれない
世界がわたしを死んだと思っていても
べつにかまわない
否定することもできない
だって、世界にとってわたしは死んだも同然だから
わたしは世界のざわめきに対して死んでいる
そして静かな片隅で休む
わたしの楽園の中でひとり
愛の中で  歌の中で

(フリードリヒ・リュッケルトのドイツ語の詩を英語から重訳)

まずいコーヒーをシャンパンと思いこむことで、乾杯を捧げることもできる。今ここにないものに対して。