Journal: 2008年アーカイブ

『トウキョウソナタ』

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『トウキョウソナタ』

以前から注目している黒沢清監督の映画なのでみなければ思っている間に、いつも読んでいるいくつかのブログでとりあげられて、そのたびにその記事だけ見ないようにするのも、そろそろつらくなってきたので、ようやく重い腰を映画館のシートに埋めた。

リストラされたことを家族に言い出せない父(香川照之)、米軍の外人部隊に入隊するという長男(小柳友)、隠れてピアノを習う次男(井之脇海)、そして密かに虚無感をかかえる母(小泉今日子)の4人家族の物語。20文字で要約すると「崩壊しかけた家族が再生するホームコメディ」ということになってしまうんだけど、それだとこれまでの黒沢作品をホラー映画と呼んでしまうのと同じような違和感を感じる。

まず最初に思ったのが、これは一昔前の話ではないかということだ。中高年のリストラが騒がれたのはもう10年近く前のことだし(しかも実際もっともしわ寄せを受けたのは巷談されていたような中高年ではなく若年層だった)、父親の子供に対する権威主義的な態度も今となっては少数派だろうし、母親が専業主婦というのもちょっと前の典型的な家族像を再現しているような印象だ。

そこに普遍的なリアリティを与えているのは、実は一見荒唐無稽に思える長男の米軍入隊のエピソードではないかと思った。それによって時間が反転して、すべてが近未来の出来事のように思えてくるし、息子を言葉で説得することができない父親の姿によって、コミュニケーションの不在という、この家族、そして日本社会全体がかかえる問題があぶりだされてくる。

そういう前振りがあると、そのコミュニケーションを回復させるような出来事を発生させて、家族の絆を再生させるというストーリーをつい想像してしまうけど、さすがは黒沢清で、予想もつかない展開が待ち構えていた。ある一夜、戦場にいっている長男をのぞいた家族三人はばらばらに引き離されて、それぞれいったん死の領域に入り込んでそこから蘇るような経験をする。つまり再生するのは家族という共同体ではなく、それぞれの個人なのだ(長男もまた現地の人々との触れあいにより一面的なドグマから解放されてより広い視野を得たことが手紙で語られる)。

最後は実は生まれついてのピアノの天才だった次男が演奏するドビュッシーの「月の光」と立ち去る親子三人にふりそそぐやわらかな光で閉じられるのだけど、なぜかカフカの『変身』のラストみたいな感じがした。巨大な虫に変身したグレゴール・ザムザが死んだ後、解放された父、母、妹3人で外出するシーンがあるんだけど、何とも不思議な明るさとともに描かれているのだ。この映画にあてはめると、巨大な虫のように形骸化した家族の殻をいったん脱ぎ捨てて、これからは奇跡的にあらわれた音楽の力を使って新たな関係を築いていくという希望が、表現されていたのではないだろうか。

いつもの黒沢清の映画だと圧倒的なパワーを見せつける超自然的な存在がでてきて、どちらかというと人間に害をなすんだけど、今回それがピアノで、人を幸福にする方向に働いたような気がする。

レクイエム

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これでほんとうにアキバも終わったんだな、とそのニュースをきいたとき思ったのだった。数年前までは、自分だけの小さな物欲の世界に逃げ込めるアジールだったのだが、そういう無邪気さはこれで根こそぎ失われてしまうだろう。

ほんとうに孤独でほんとうに絶望しているなら、彼は、歩行者天国のアキバで、無差別な殺人でなく、無差別なナンパをすればよかったのだ。

「ヘイ!パンツ何色?」

それがどんな色であれ、血の赤色よりずっとこの街の終わりには似つかわしかったと思う。

鈴木芳樹さんの訃報

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ライターの鈴木芳樹さん(http://d.hatena.ne.jp/yskszk/)が亡くなられた。直接お会いしたことはなく、ネットでやりとりしたこともほとんどなくて、ぼくが彼のblogの一方的な読者という関係だったのだけど、お茶目でちょっとほっておけないタイプのキャラクターに、勝手に他人とは思えない親しみを感じていた。もちろん、紹介されていた書籍やCDを参考にさせていただいたことは数知れない。

調べてみたら、一度だけぼくが投げたトラックバックに応答していただいたことがあったようで(http://d.hatena.ne.jp/ssugi/20050504)、ずっと近くを歩いていた気もするが、それがただ一度の袖のふれあいになってしまった。

客観的にみればほとんど知らない人といったほうがいいのかもしれないけど、もう彼がこの世界のどこにもいないということが正直かなり悲しい。

「人間精神は身体とともに完全には破壊されえずに、その中の永遠なるあるものが残存する」 by スピノザ

東京都内の街をきわめて個人的な観点から順位付けしてみた。

ほんとうは年末の総括記事として2007年中に公開したかったのだけど、順位をつけるだけでも時間がかかってしまった。というわけで今頃カウントダウンのはじまりだ。

10位は上野・御徒町周辺。仕事帰り気分転換に、このあたりの風情にふれて、俄然好感度がアップした。町外れには意味もなく夜遅くまでパン屋が開いていて、売れ残ったサンドイッチの傍らで店員が眠りこけている。中心部の街路に夜ごと築かれる段ボールの砦。その真ん中を古い写真の中でしか見かけないような異形の人々が通り抜ける。それを見守るように上野公園の広大な闇がひろがる。なんだか、コームダウンさせてくれる街だ。

9位は八重洲・日本橋。かつて五街道の起点であり、今でも多くの道が集結する。三越前の通りは空が高くてまるでニューヨークのダウンタウンのようだ。視線をさげれば襞のように路地が入り組んでいて、ドアの向こうにはまた別の空間が広がっている。正午の垂直な日射しを浴びていると、ここからどこにだっていくことができるような気がする。

8位は有楽町・銀座。隣の日本橋は昼の街だが、こちらは夜の街だ。といってもぼくが夜の銀座について何を知っているわけでもない。9時過ぎまで開いている本屋がいくつかあること。孤独な誘蛾灯のように客を待つ占い師たち。客引き禁止条例のせいでパントマイマーのように寡黙になった黒服たち。

7位は八王子。郊外といえば、にぎやかな通りがあったとしてもそこ一筋だけであとはさびれていたりとか、駅の周りのブロックだけが栄えているのがせいぜいなのだが、ここ八王子は、都心のように面上に街が広がっている。商店街は縦横斜めに走り、それが尽きた外側にもなだらかに街が広がる。繁華街をはずれても田舎じみることなく、都市的な街路が続く。立川に商圏を奪われて地盤沈下しているといわれるが、今のにぎわいを失わないでほしい。

6位は三鷹。何といっても南口駅前からまっすぐのびる商店街だ。覚えているのは、行列のできる鯛焼き屋、カレーのおいしい喫茶店、街外れの貸本屋。そこに別が何があるわけじゃないけど、何度みても楽しめる映画のように街並みを追うことがひとつの快楽になっている。南口コンコースに置かれていた若干不気味な「ハーモニー」という名の彫刻がずっと撤去されたままだが、ぜひ復活してほしい。

5位は国立。はじめて国立を訪れたとき、たまたま入ったレストランの隣の席に詩人と呼ばれる人が座っていた。それ以来、国立ではどの店の中にも文化が充満しているんじゃないかという勝手な幻想をいだいて、そのせいで逆に敷居が高くなってしまっている。実際、個性的な店が多いのは間違いないが、なかなか中に入って確かめる機会がなく、幻想ばかりが膨らんでゆく。

4位は新宿。好き嫌いを越えて定番の街だ。ここにくれば、愛と永遠以外のものはたいていそろうので、なんだかんだで足繁く訪れてしまう。おそらく、東京をしばらくはなれることになったら、まっさきに思い出すのは新宿のごみごみした雑踏だろう。

3位は下北沢。ぼくにとっては演劇の街だが、音楽の街だという人もいるだろうし、古着の街という人もいるだろう。人それぞれの下北沢があって、ざわざわと共鳴している。市川準の撮った『ざわざわ下北沢』という映画の中で主人公の少女が「このざわめきが消えることはないし、またひとつにまとまることだってない」といっているが、街の真ん真ん中に巨大な道路を通す計画がもちあがっていて、そのざわざわがピンチに瀕している。がんばれ、ざわざわ。

2位は渋谷。あふれかえる人の流れがテンションを高めてくれるアッパー系の街だ。大きくて品揃えのよかった書店ブックファーストが移転縮小して、新宿に比べると利便性が落ちてしまったが、相変わらずぼくにとってはホームタウン的な居心地のよさを感じさせてくれる街だ。

1位は吉祥寺。東京西部攻略のベースキャンプとして利用させてもらっている。さまざまなパフォーマーが集って開放的な井の頭公園、にぎやかな北口メインストリート、隠れ家的な東急裏、そこにヨドバシカメラが加わって、向かうところ敵なしの全方位的な街だ。

今年もたくさんの街を訪れることになるだろう。それぞれの街の新しい魅力がみつけられればいいなと思う。

というような感じで、今年もよろしくお願いします。