決して仕事がひまなわけではないのだが、今日は有給休暇をとってしまった。毎日、あまりにせわしなく時間が過ぎていくので、この辺で無理矢理にも句読点をはさみこみたくなったのだ。自分本来のゆるやかなリズムで時間が流れる日、今日はそんな一日にしようと思った。
当然のように昼過ぎに目覚めたあと、それでもいつもの休みよりは一時間くらい早く家を出る。曇り空で日は照っていなかったが、それでも十分すぎるほど暑い。駅につくまでの間に汗が滴り落ちてきた。散歩をしたらゆるやかな時間は流れないと思ったので、今日は美術館にいくことにした。上野の国立西洋美術館で開かれている『レンブラント、フェルメールとその時代』だ。週末にいくと混みそうだったので、今日のような平日にいってしまうのがゆっくり絵が見られてお得だ。
まずは食事。早くも夏ばてで体がだるいので、精をつけるため、久しぶりに薬膳カレーを食べることにした。日暮里でおりる。
「夕焼けだんだん」の手前で左に折れると、いつも週末にくるときは静かな路地が、渋滞する車の列で埋まっていた。こういう狭いところにかたまっているのを見ると、車というやつは町に巣くうゴキブリのようだ。病原菌の代わりに排気ガスをはきだすところがちがう。止まったまま動かない自動車の列をすいすいと追い越し、ぼくは薬膳カレーの店の中に入った。
昼飯時を過ぎているせいか、客はぼくの他誰もいなかった。ここに来るのは二度目になるが、前回来たときも同様だった。こちらが本店なのだが、白山にある支店の方がよほど繁盛している。いつの間にか、薬膳カレー麺とかいうパスタのメニューが増えていたので、それを注文する。店内にはライトなクラシック音楽が鳴り響き、何かを炒める音と香ばしい匂いがときどき耳と鼻をかすめる。確かにここではゆるやかに時間が流れているようだ。
15分ほどで、頼んだ料理が運ばれてきた。パスタの上にカレーのルーがかかっているのを想像していたのだが、透明なオイルを基調としたソースだった。味はまあまあだったが、パスタがゆですぎでアルデンテとはいえない状態になっていたのが惜しまれる。
会計をすませて外に出ると、相変わらず車の列は続いていた。道路際の建築現場の作業員と思われる男二人が、この件について立ち話をしていた。年配の方がいうには「お盆だからしかたがない」とのこと。いくら今年の夏が早く来たからといって、さすがにもうお盆ということはないと思うのだが。
上野公園の方に向かうつもりが、いつの間にか方向感覚を失って、根津駅のあたりに来ていた。萩原朔太郎の『猫町』という小説に、いつも見慣れたつまらない町が、方位を錯覚して左右逆に見るだけで、情緒の深い町に変わったという体験が書いてあったが、ぼくも、このあたりは散々歩いているはずなのにそれと似たような新鮮な気持ちになった。
左右をの感覚をもとに戻し、どうにか西洋美術館にたどり着いた。17世紀のオランダの絵画を見てまわる。この前大阪で見たのは遠近法を強調したフォトレアリスティックなものが多かったが、今回は多様なスタイルのものが展示されていた。絵に描かれている市民生活の様子を見ていると、今のぼくたちの生活とさほどかわらないのではないかと思った。おそらく同じようなものを大事に思い、同じようなことに楽しみを見つけていたのではないだろうか。
今回、「レンブラント、フェルメール」と銘打ってはいるが、フェルメールは『恋文』1点だけだ。この作品は少なくともぼくの心にはあまり響いてこなかった。その代わり、レンブラントは、版画も含め多数展示されていた。何といってもすばらしかったのが『聖パウロに扮した自画像』。暗いバックの中で、レンブラント独特のきらめく光に照らされながら、レンブラントが浮かべている表情がなんともいえない。この絵を見るためだけにも、いく価値はあると思う。この絵を含めて3枚ポストカードを買った。
ちなみにレンブラントのフルネームは“Rembrandt Harmenszone van Rijn”という。レイン出身、ハルメンの息子のレンブラントという意味だ。当時のオランダでは、身分の高い家系以外はこういう形の名前だったのだろうか。識別性も高いし、あとくされのない、いい名前だと思う。
不忍池のほとりをかすめて秋葉原方面に向かった。夏の不忍池は蓮の葉に完全に覆われてしまって、池というより、畑のように見えた。
秋葉原では、会社用のPalmの接続ケーブルとCD2枚(大貫妙子とビートルズ)を買った。

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